2016年5月29日 礼拝メッセージ
まことの謙遜 ルカ18:9~14
ルカ18:9~14
9、自分を義人だと自認し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10、ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11、パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことに取税人のようではないことを感謝します。
12、私は週に二度断食し、自分が受けるものはみな、その十分の一を捧げてております。
13、ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14、あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人はではありません。何故なら、誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。
私たちは、御言葉を開き、読み、聞くことによって、生きる生活の全ての上で訓練を受けていることをまず知りたいと思います。
御言葉を読む時、はっと思う時があります。心に刺さる時があります。その時は、御言葉が私のあなたの心の中に、もっと真っ直ぐですよ。いま、曲がっていますよ。と歩む道を正される時です。
私は、何回正されたか。もう数えきれません。本当に愚かな人生になってしまうその寸前に、神様は私を叩き、揺すぶられました。そして、現在も同じです。「揺すぶられる人生」を生きて、私は天の世界を知りました。それは、神さまの大いなる臨在を体験したからです。聖霊様が私に臨むと、私の場合は、後ろに倒れて、体中に、聖霊様の電流が流れ、震え、体が私の意志ではなく、神様の意志の上で、自分ではコントロール出来なくなり、体中が揺すぶられます。もう、起き上がれない。引力が強く働いて立ち上がれなくなります。このような体験をしますと、再び、起き上がり、正常になると、自らの罪が見せられます。同時に私の罪が主イエス様の十字架で贖われたことを強く自覚するのです。
不思議な世界です。
私たちが御言葉を読み進めて行きますと、神様の力によって、激しく心が揺さぶられる瞬間があります。それを、“レーマ”と呼びます。特定のある時に、神様の言葉が飛んで来て、自分の心が、悔い改めざる得ない思いになって行きます。
ギリシャ語で、“ロゴス=ことば”“飛んでくることを、レーマ=ことば”と呼びます。
人間は聖霊様によって、揺り動かされる瞬間があります。その瞬間は、私が全く意識していない時、突然に風が吹いてくるのです。聖霊様の力がやって来ます。そういう時は「瞬間的に分かります。」そいう云う体験したなら、神様があなたしか分からない部分を、悔い改めをしなさい!と言っていることを覚えてください。
神様、私は本当に愚かで小さな存在です。神様、私はあなたの前に出る時に、あまりの罪深さを感じます。悔い改めます。そして、イエスの御名の権威によって何事でも出来ると、宣言します。
その時、力が来ます。聖霊の力が来ます。すごい世界に導かれていきます。
今日の御言葉は、パリサイ人と取税人のふたりが宮に上りました。そして、共に祈りました。その祈りの姿と言葉は対照的です。
11、パリサイ人は、立って、心の中で祈りました。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではないことを感謝します。特に、あの取税人のようではないことを感謝します。主よ。私は週に二度断食をし、十分の一献金を捧げています。
12、一方、取税人は宮から遠く離れて、目を天に向けることもせず、自分の胸を叩いて、『神様、こんな罪人の私をあわれんでください。
このたとえは、『まことの謙遜』はどういうことかについて、イエス様は語られました。
二人の祈りには大きなへだたりがあります。
パリサイ人はその祈りの中で、自分の徳を誇り、自分の行っていることに自信を持っていました。自信は必要なことなのですが、パリサイ人は、自らを人々にひけからかして。この祈りは最高と思う。その祈りを形式的な祈りです。
そして、他人に聞かせるという誤りを持っています。パリサイ人は、神に感謝します。と云うのですが、感謝が形式的な祈りで終わる。感謝は祈りの中で大切な要素ですが、この祈りには致命的な欠陥があります。神様と交わりがないのです。
一方、取税人の祈りは、祈りとも呼べないような、悲壮な叫びです。しかし、
「自分の罪を赦す神様を見上げ」、その点で神様と親しく交わり、自らを見つめています。
取税人はその時代は、人々から罪人扱いされるほど嫌われていました。イスラエルはこの時代、ローマ帝国が支配していましたので、住民はローマ税とユダヤ税と両方の税金を払わされていました。それにさらに、だまして、取税人税と云えばいいでしょうか。三重税を取っていました。ですから、ここに出て来る、取税人は、罪を犯していることを自覚していたに違いありません。
みなさん良く聞いてください。
このような祈りが必要なのです。
『私たちの必要な祈りは、悔い改めから来る祈りです。』
主を見上げれば、自らの罪が見えてきます。
必ず、見えます。
私たちの神様は唯一全能なる神です。
妥協しません。
絶対的に全能者の中で生かされていることを感謝します。
救いはイエス様の中にしかありません。
そこは譲ることが出来ないのです。
私たちの神様は、限りない愛を持って見ていてくださいます。どこを見ますか。自分の罪を知り、悔い改める信仰を見ています。
Ⅰペテロ5:7
7、あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。
私のために罪の身代わりとなられたイエス・キリスト様は、ご自分が、天に座しておられる父に愛されているのと同じ愛で、私たちを愛してくださいます。
神様の愛は、この世で最も小さい、最も弱い者に向いています。
私はそんなに小さくない。弱くもない。と思うならば、神様は愛をくださらない。私は神様のまえでは「無に等しい」と心から告白出来るなら、そこから発せられる祈りは聞きかれます。
聖書はそういうことを語っているのです。
自らの人生をすべて主に預け、委ねるのです。
それ程、私は愚かなことをする可能性を持ち、傲慢になる可能性を持っている。そうでなければ、イエス様がこの地上に遣わされた意味はまったく「うそ」になります。
私たちは、神様を悲しませたことが沢山あります。
ですから、“無に等しい”のです。
自分の心で人生を切り込んでいくことは生きる上で重要ですが、切り込んでいく時には、同時に、主とともにいる者であることを自覚たいと思います。
主が、私のあなたの日々の重荷を背負って下さっています。
マタイ11:28
28、すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませて上げます。
29、私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたも私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30、私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。
この御言葉は神様の愛です。
私の重荷を主が負ってくださる。って。
私は現在の牧師になるまでには、大きな道のりがありました。私は、小学1年の時に、木村先生のようになりたいと思いました。牧師という言葉を知りませんでした。その思いは高校年まで全く変わりませんでした。受験が迫ったある日、私はとんでもない言葉を聞いてしまったのです。私が大学に行かせるお金がなかったのです。両親はお金を借りるという話しでした。私は、お金を借りてまで大学に行きたくはないと思いました。それ以来、どうしたら大学に行かないですむか、考え始めました。そんな高校生はめったにいないと思いますよ。悩みました。大学へ行きたかったです。幼い時代から持った思いが、ようやく達成出来ることを夢見ていましたから、しかし、私の大学入学が借金で行かれることはいやでした。悩んだ末、最高の答えを見つけました。それは、私が「白紙答案」を書けばいいと云う答えです。関東学院大学神学部の試験で白紙答案で帰るという妙案です。学校では、大学受験のことで教師は大変です。私も先生に呼ばれて石川、お前はどこの大学を目指すのかと言われると、はい、関東学院大学神学部です。私は牧師になるからです。そう答えていました。「白紙答案」と云う言葉は一切言わず、牧師にも言わず、ただひとりで決めて行動しました。見事に白紙答案を出して、帰ってきました。親も牧師も教会の方々も、私が受験に落ちるとは考えられなかったと思います。見事に「落第通知」が届きました。高校三年と云う時期は多感な時代です。「受験失敗」までは計画通りでしたが、一つ予想しないことが起きました。私の意志でやったことですが、いざ受験に失敗となると周りの目が気になり始めたのです。誰とも話したくない。そういう時期がありました。しかし、そんなことは言っているひまはありません。大学の入学金を作らなくてはなりません。当時で12万を作り出すために、何人もの家庭教師と、仙台にある日赤病院の食堂のボーイさんになって働きました。やがて1年が終わり、入学金も出来て、大手を振るって入学しましたが、また予想しないことが起きました。その時代、教会に関わる多くの同僚が関東学院に入学していたのです。ですから、大学へ入ると、その同僚と顔を合わせることになります。一時ですが、同級生たちと会うことがいやでした。しかし、そんなことを思っているひまはありません。今度は生活費と学費を作らなければなりません。もうアルバイトのアルバイト、夏は学費を作るための絶好の期間。毎日おかかごはん(鍋で炊いたご飯にカツオブシをかけたご飯)、もうろくなものを食べていませんから、大学を卒業の頃は、栄養失調になっていました。
これは、私の人生の一部ですが、いま思いますと、ものすごく楽しかったです。満足感と言いますか。充実感といいますか。そういう喜びで満ちていました。
ィザヤ書6章は、「イザヤが天の御座の主を見た」時のことが記されています。
先週はエゼキエルを取扱いました。今日はイザヤです。
イザヤ6章1~7
1、ウジヤ王が死んだ年に、私は高く上げられた王座に座している主を見た。すそは神殿に満ち、
2、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ、六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足、二つで飛んでおり、
3、互いに呼びかわして言っていた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
その栄光は全地に満つ。
4、その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
5、そこで、私は言った。
「ああ、私は、もうだめだ。
私はくちびる汚れた者で、
くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
しかも万軍の主である王を、
この目で見たのだから。
6、すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来たが、
その手には、祭壇の上から火ばさみで取った
燃えさかる炭があった。
7、彼は、私の口に触れて言った。
「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
あなたの不義は取り去られ、
あなたの罪も贖われた。
イザヤは天の王座を見た瞬間に、自らが主の前で罪に満ちていることに気が付きました。しかし、王はセラフィムに祭壇から取った火ばさみを取って、燃えさかる炭が、イザヤのくちびるに触れられました。
すると、これがイザヤのくちびるに触れたので、あなたの不義は取りさられ、あなたの罪は贖われた。
ここは、イエス・キリスト様を予表していると思います。
セラヒィムは聖書の中でここしか出て来ません。
そして、セラヒィムは御使いで複数で書かれていますので、そこに居たセラヒィムは御使いの軍勢だったと思います。イエス様が生まれる時に、羊飼いにその知らせが届きました。その光景は千の幾千倍、万の幾万倍の御使い、天使が現れたと書かれたとおりです。ヨハネの黙示録5:11に出てきます。
イザヤは、神聖な神の座に座っておられる主によって、イスラエルの民を導く預言者として立てられた器です。そのイザヤが、主の前に立った時、『イザヤはもうだめだ』!と言ったのです。
4節に、その叫ぶ者の声のために、敷居の基は揺るぎ、宮は煙で満たされた。
ここが重要です。神の前には、恐ろしいほどの臨在があったことを想起させます。敷居の基がゆれていた。そして、煙が満ちていた。すごい世界が描かれています神様に、預言者としての働きが与えられたイザヤが、実際の神の前に進んで行き、お会いした時、やはり人間です。
絶対的神の前に立った時、
イザヤは『自らの無力さ』しか思い、感じることが出来なかったのです。
イザヤは、神の前には、ただ、『人間は何ともろい存在か』を思い知ったのだと思います。
イザヤが『もう駄目だ』と思う。『自分の罪に圧倒されて、主よ。赦しください』と云う言葉も出てこない。ただ、その光景はそれほどの驚きであったことを想像出来ます。
主の前に立つ者は全て同じです。
私の内部にある罪、
天の御座に座る主の前に立った時、父なる神は、これ以上ない愛に満ちたお方です。どんな人も恐れ多い主の前に出たならば、顔も見ることも出来ないだろ御姿であると私は思います。
ですから、『私はもう駄目だ』とイザヤが言った言葉は、神様の愛の稲妻が巡っている。ただ、あるのは愛だけ。有るのは、ただ愛だけ。そういうことを想像します。
7、彼は、私の口に触れて言った。
「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
あなたの不義は取り去られ、
あなたの罪も贖われた。
口と書かれてあります。
口は剣であり、愛、赦しです。
8、私は「誰を遣わそう。誰が、我々のために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに私がおります。私を遣わしください。」
この御言葉は私が、関東学院神学部に入学する「召命感」を書いた御言葉です。私がここにおります。私を遣わし下さい。」私にとりましては、懐かしい言葉です。私が18歳の時です。
ヨハネ15:9
9、父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛しました。私の愛の中にとどまりなさい。
ヨハネ17:23
23、私は彼らにおり、あなたがたは私におられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたが私を遣わされたことと、あなたが私を愛されたように、彼らを愛されたことを、この世が知るためです。
イエス様は 地上の全ての人々を愛しておられます。例外は全くありません。誰でも救いの恵みを受け取ることが出来ます。
このように素晴らしい愛で愛されておられるのには、『一つの特徴』があります。
主はこの地上を歩まれた時、私たちと全く同様に困難、試練、誘惑を通過されました。
イエス様は人々からあざけられ、軽蔑されました。この方はまぎれもなく聖なる神の御子でした。それなのに、体を休ませるための枕する場所もなく、罪は犯していませんが、あらゆる点で誘惑に遭遇しました。
イエス様は自分の弟子たちに、あなたがたと「同じ人間であること、そして、神の子であることを。を弟子たちに分かるようにされました。」
イエス様は、自らの葛藤を困難を、苦しみを、軽蔑をされながら、神の子として遣わされた使命に生きたのです。そして、その使命は、父なる神の計画に従って、歩まれた。12人の弟子たちにその歩みを見せたのです。
弟子たちは、イエス様の十字架の最後の戦いを見ることが出来ませんでした。
エリ・エリ・ラマ・サバクタニ。わが神、わが神、どうして、私をお見捨てになるのですか。
12時から全地が暗くなり、3時まで続きました。
『父からの間が断絶された3時間』です。イエス・キリスト様が預言の成就を成し遂げるために『父が必要とした3時間』でもありました。
その苦しみのゆえに、私たちは救われたのです。
Ⅰコリント1:27~31
27、しかし神は、知恵あるものをはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
28、また、この世で取るに足りないこの弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち有る者をない者にするため、無に等しい者を選ばれたのです。
29、これは、神の御前で誰も誇らせないためです。
30、しかし、あなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
31、まさしく「誇る者は主にあって誇れと書かれているとおりになるためです。
この御言葉は、何回も何回も申し上げていまから、覚えておられと思います
パリサイ人は、自らを誇りました。
一方。取税人は、自ら胸を叩いて、「神様、こんな罪人をの私をあわれんでください。」
と宮の外に立って祈りました。
この御言葉は、イエス様のたとえ話しですが、
パウロが語った、世で無に等しい者を神は選ばれた。
この両方に通じるものを見ます。
無に等しい者が主に礼拝を捧げています。主に賛美を捧げ、御言葉を学ぶことを、主は見ておられます。
ここに主が喜ばれる、『主の謙遜』があることをこの一週間心に刻み、歩みを続けていきましょう。
祈ります。
愛する父なる神様、今日、一週間の歩みを終えて、再び、あなたを誉めたたえるために、教会に集められたことを心から感謝申し上げます。神様が絶対的な愛に満ち、絶対者であられることを感謝いたします。この一週間の間、さまざまなことがありました。生きることは霊の戦いであることを思います。生きておられる主よ。この日本はあなたの御力が必要です。私たちひとりひとりは一人では歩む事が出来ません。聖霊様の臨在の中にいつも自分を見出すことが出来ますように、私の愚かさが、主が喜ばれるものでありますように、切に祈ります。この地上で生きるには、困難が幾恵にもありますが、この一週間もあなたの手の上で歩みがなされますように祈ります。この祈りを主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン