2016522日   礼拝メッセージ

            主の霊的訓練を喜ぶ   エゼキエル32227

 

 

エゼキエル32227

22、その所で主の御手が私の上にあった。主は私に仰せられた。「さあ、谷間に出て行け。そこで私があなたに語ろう。

23、私はすぐ、出て行った。すると、そこに、主の栄光が、かつて私がケパル川のほとりで見た栄光のように、現れた。それで私はひれ伏した。

24、しかし、霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。主は私に語りかけて仰せられた。「行って、あなたの家に閉じこもっていよ。

25、人の子よ。今、あなたに、なわがかけられ、あなたはそれで、縛られて、彼らのところに出て行けなくなる。

26、私があなたの舌を上あごにつかせるので、あなたは話せなくなり、彼らを責めることが出来なくなる。彼らが反逆の家だからだ。

27、しかし、私は、あなたと語る時、あなたの口を開く。あなたは彼らに『神である主はそう仰せられる』と言え。聞かない者には聞かせるな。彼らが反逆の家だからだ。

 

私たちには、「人間としての生き様(いきざま」と云うものがあります。

私たちは、神様のメッセージを生きる存在者です。神様は、クリスチャンとして生きる、“キリストの手紙”であるとようにと語っておられます。ですから、私たちは、人々に、神にある人生の姿を証しする者になるのです。人が私たちを見る時に、人々が神様のメッセージを聞ききたいと、そう思わせるような生き方を示す“生き様”を見せる存在者になりたと思います。

 

間もなく上映される、

“祈りの力”の紹介文か書かれてありました。

 

“人は誰でも生き詰まることがある。失敗し、誤解され、助けてくれる人もなく、どうすることも出来なくなった時、自然と口から出る言葉は「神様助けてください。という祈りの言葉である。どこでも、誰にでも出来ること。祈りは、最強の力であることを教えてくれる。その時、『祈り』は、最強の力になる”

 

“私たち自身がキリストの手紙である。そう云う生き様を現す者であるようにと、主はおしゃっています“

 

しかし、同時にそういう生き様を現すとことが出来るためには、力が必要です。“その力は聖霊様とイエス様、アバ父からの力によらなければ強くなりません”その力を受け取る祈りをしていきたいと思います。必ず与えて下さいます。ですから神様は、私の心の中におられます。腹の中です。聖霊様、私の生きる方向を教えてください。

 

御言葉は、「私は無に等しい者」だと語ります。私を見つめると確かにこの無に等しい小さき者だと思います。主は、そういう者に力を与えてくださるからです。“謙遜で、誠実で、神様の愛に満ちている”そういう人物になろうと、主に願うなら、あなたは、力を受けます。信じて期待します。主は、私を常に守って下さっていることを感謝しましょう。

 

イエス様が「永遠のいのち」です。

イエス様の十字架を見上げます。

イエス様がすべての全てです。

 

人生は一回限りです。

 

私は大きな病気をしたことが数回あります。その中で、私の命が明日あるかわからない、そういうところを通されたました。御言葉で「明日のことは心配は無用です。明日のことは明日が心配する」という御言葉があります。私の命は明日で終わりかも知れません。私はその時、一日の重さを知りました。本当に一日は重く、重要であるか。そういうことを心から感ずることが出来ました。「人生は一回限り」といまその時を思い出しますと、そう思います。今日の命を大切に生きる。「人生は一回限り」だとつくずく思います。イエス様、今日の命が与えられてたことをありがとうございます。私は、明日の命は保証されませんでした。

私の人生はイエス・キリスト様にゆだねました。心は平安でした。今の病気は神様が私に試練を与えられたとそう思いました。その時に、私の生きて来た過去を思い出しました。

 辛い時がありました。

苦しい時がありました。

悲しみ、涙を浮かべる時もありました。

 みなさんに心から叫ぶような気持で言いたいことがあります。イエス・キリスト様は、私のあなたの罪を身代わりになって死んでくださいました。罪のない人はいません。自分で自分の罪を赦すことは出来ません。私のあなたの人生で、自らの罪を赦され、死んでも天国で生きることが約束されています。

あなたはどういう生き方を求めていますか。

新しい命に生きる道を見つける旅に出ましょう。

 

この地上の命を大切にして。

どうぞ、命を大事にしてください。

それは「霊的世界」があるからです。

創造主なる神様のおられる「霊の世界」です。

 

良く、自分を見つめ直してください。

どう生きても、人生は一度だけです。

あなたは、天国に行きたいですか。

天国は、地上で大きな病気をされていたとしましても、

地上でどのような病気であっても天国には病気はありません。ただ、天国はイエス・キリスト様がおいでですから、イエス・キリスト様を信じ、自分の人生をイエス・キリスト様と共に歩む人生を選び取ってください。イエス様は、人類の歴史の中で生きたすべての人々は罪をもっていました。その罪を身代わりになって十字架上で死んでくださり、三日目によみがえり、天にお帰りになりました。その時から、聖霊様遣わして下さっています。

 

 

今日の御言葉にはいります。

 

 

預言者エゼキエルは、預言者です。彼が働きの初めの頃、主は一時期、彼が口を聞けないようにされました。

イスラエルの人々にとって預言者エゼキエルはその存在だけで、神の言葉、従順とはこの人の事だと思われるほどの「しるしと不思議と奇跡」を現し、その生き方を現し、彼その者が、人生そのものが手紙でありました。

 

神様はエゼキエルに「谷間へ出て行け」と言われ、エゼキエルは谷間に下って行ったその時に、神様の栄光が現れました。そして、エゼキエルはひれ伏したのです。神様はエゼキエルに「出て行って語れ」とは言わないで、何と「家に閉じ持っていよ」と言われました。そして、さらに「あなたの体に縄をかける」と言われ、またさらに、「あなたの口を閉ざす」と言われました。

 

 

なんと不思議な言葉でしょうか。

 

 

これからこの御言葉の解き証かしをします。

 

 

神様はエゼキエルの口を神様の意志の上においたのです。

さあ。谷間に行けということは、神様の意志はこの谷間で聞くことが出来るのだと云うことを言っています。

谷間とはどのような所なのでしょうか。

静かで、誰もそこにいない所です。

神様が語る時は、戸が閉ざされた場所であるということを神様は教えています。

 

私たちは、聖霊様と親しい関係を持つ時は一対一の関係を持つ必要があります。

 

「谷間へ行け」と云う言葉は「環境」を指しています。

 

私たちの生活の中で、神様の声を聞く環境を何らかの形で作り出さなければいけないということを意味しています。

 

朝早くとか、寝る時だとか、昼間でも「環境を作る」すなわち「谷間を作る」ということです。

その中で神様は栄光を現されます。

 

エゼキエルはそこでひれ伏しました。ひれ伏すことは謙遜に神様に自らを預けた時に、神様はあなたの信仰を見られると云うことです。

 

愛する兄弟姉妹、よく聞いてください。

 

私たちがひれ伏すならば、神様は語られます!

謙遜に自分を全て預けた時に、神様は語られます!

 

“神様、私には本当に力がありません。あなたの力がないと生きていけません。主よ。あなたのご臨在がないと力が出ません。”

 

霊的謙遜を身に着けることをしていきたいと思います。

霊的謙遜は、神様の前で何も出来ないと云う正直な心の状態です。

神様の御言葉なしに、主の臨在なしでは生きられない。

神様の前で、へりくだり、謙遜でなければ生きられない。

謙遜な信仰を神様は見ておられます。

 

神様はエゼキエルに「あなたの家に閉じこもっていよ。」と言われました。

そして、神様がエゼキエルの「体を縄で縛った」のです。

 

縛られるということは、縄で縛られたということではありません。

聖霊様が臨むならば、人間は動けなくなります。

これは本当です。

聖霊様が、私を捕えるならば、動けなくなります。

臨在が強いだけ、自分の体をコントロール出来なくなります。

 

私はこのことを何回体験してきました。

 

5月19~21まで、デイビット聖会に行っていました。先生が祈って頂いた時、後ろに倒れて、起き上がれなくなりました。引力に引っ張られる、という言葉が良いか、言葉に表せないことを体験しました。そして、この体験はもう20年も前から私は体験してきましたので、このエゼキエルが「縛られた」という言葉が手に取るようにわかります。

 

エゼキエルはそれだけではありませんでした。「口が閉ざされた」のです。

“神様が口を塞ぎましたそして、神様の意志を伝える時だけエゼキエルの口は開くようにされて、エゼキエルはしるしと不思議と奇跡を現し始めたのです。

「私が語る時、あなたの口は開く」ように神様が語らせなければ、エゼキエルは語ることが出来なくなったのです。。

 

 

私たちは、世の中に生きていると、余計な言葉が入ってきます。本当に聞きたく言葉を耳にします。生きている限り、常に聞きたくない言葉との戦いです。

 

 

親が赤ちゃんを産んで殺した。

幼児に暴力を振るって死なせた。

沢山ありますね。毎日のように報道されます。

 

子供が欲しくても、授からないで悩みの中にいるご夫婦たちがいっぱいいますよ。殺すなら、その子を預かって、養子縁組をすれば、赤ちゃんは無事です。子供を死に至らせることはとんでもない罪です。

 

かわいそうに。

 

日本は堕胎天国と言われています。

どうか命を尊び、命を選んででください。

 

どうにもならないから、私のホームページにあなたの悲しみ、苦しみ、を語ってください。

 

 

堕胎しないで、元気な赤ちゃんが生まれることがどれほど、喜びになるでしょうか。「堕胎しないでください。」

 

 

私の家はテレビがありませんから、夕方のNHKのニュースとインターネットのニュースを見るだけですが、その中でも、もう耐えられない程に聞きたくない

ニュースを聞きます。

言葉の暴力が蔓延しています。

汚い言葉によって自殺してしまう。

いじめで自殺してしまう。

 

かわいそうに。

 

老人ホームで、老人を窓から落として殺す。

どうしてでしょうか。

私には理解出来ません。

かわいそうに。

 

私たちは、言葉を注意したいです。言葉で人を殺すことが出来る程、言葉は重いです。

 

みなさん。

 

イエス様は、そういう「みじめな私のために死んでくださいました。」

神様の考えは、自分の考えることとは違います。

神様は私たちの心の中を見られるお方です。

あなたの心の中にある扉を叩いています。入って

 

口で語ったことが、人の前に出ると正反対なことを言ってしますことがあります。聖書では、「二心」と言っています。

 

ヤコブ1:668

6、ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波にようです。

7、そういう人は、主から何か頂けると思ってはなりません。

8、そういうのは、『二心』のある人で、その歩みは道の全てに安定を欠いた人です。

 

日本語は日本文化の中に生きている私たちは注意が必要です。

 

日本人は繊細な心を持っています。相手を傷付けない。という言葉は大事です。

 

「表と裏」「内と外」「内ずらと、外ずら」こういう言葉があります。

聖書を読む時に、日本人の体質というものをしっかりと持って、言葉に注意したいと思います。

 

語る私はより注意しています。

 

日本人は相手に気をつかい、顔色を見ながら話すと云う繊細な心を持っていまます。語りたいけれど、語れない、心の世界、心の本音を大事にする民族です。

 

人間は複雑だから、心の悩みがあり、涙があり、悲しみがある。そういう世界をじっと我慢する文化でもあります。

言わない。

日本人の繊細さを大切して、生きて行きたいと思います。

 

人々の「心の琴線」が聞けるように霊的訓練をしていきましょう。

そうするならば、私たちが神様のメッセージになります。

 

霊的戦いとは、何も見えないものではありません。非常に具体的なものです。悪魔悪霊どもは、じわじわと攻めています。

自分の心が苦るしむ。

悪魔悪霊どもは、人間を使います。その人間を使って、まず。脳を支配します。

 

誘惑を持ってやってきます。

御言葉を正しく理解し、正しく御言葉が私のものになる。

そういうことが出来るように御言葉は

「霊的識別力と「判断力」を求められます。

 

聖霊様と親しく交わる時間を持ちたいと思います。

「聖霊様が私たちに訪れる時は分かります。」

 

「霊的に力を身に着けることを獲得しましょう。

 

ペテロはイエス様とお会いする前は、シモンという名前でした。シモンは激情的で、感情的に不安定な漁師でした。そのシモンにイエス様は、新しい名を与えました。『ケパ=ペテロ』です。その意味は『岩』です。この神の器は、イエス様からこのような招きを受けた時、ペテロは『岩』というイメージで生きてはいませんでした。しかし、イエス様は「ああ、お前は葦のような不安的な性質ではない。」「弱く、風が吹けば、風に吹かれたままに倒れるような者ではない。」「お前は堅固で確かで、安定感のある者になると分かっていました。

 

先日学んだ、使徒の働き2章で、聖霊様が弟子たちに降りた時に、まさに、ペテロもほかの弟子たちも、聖霊様による力に満ちた神の器にされました。

 

人間の目からは、その時には考えられないことですかが、神様の目からはそうなるのです。神様の目は、私たちの肉の目ではありません。

 

ローマ813

13、もし、肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬのです。しかし、もし御霊によって、体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです

 

主が私たちに求めておられることは、肉の思いを捨てて、聖霊様の霊によって生きる者になりことです。

人間は、肉の思いに支配されていますが、肉は捨てるしょう。

肉の思いは自分の思いを優先します。常に自分が先、人を追いやって自分が先です。こういう生き方は捨てます。

 

マタイ62427

24、誰も、二人の主人の仕えることは出来ません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなた方は。神にも仕え、また、富にも仕えることは出来ません。

25、だから、私はあなたがたに言います。自分の命のことで何を食べようか。何を飲もうかと心配しまり、また、からだのことで、何を着ようかと心配してはいけません。命は食べ物よりも大切なもの、からだは着物よりも大切なものではありませんか。

26、空の鳥をみなさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

27、あなたがたのうちにだれが、心配しからといって、自分の命を少しでも延ばすことが出来ますか。

 

 

信仰は御言葉から始まり、御言葉で歩み、御言葉で終わります

私たちの人生は、御言葉と祈りが必要です。

主の御心を知ること、

御言葉に置き換えて物事を判断することが出来る人になることを求めましょう。

 

 

霊的歩みは神様の速度に従った歩みです。

 

私たちの霊的成長は、現代社会の速度で起きるものではありません。

私たちは忙しい時代に生きています。

 

神様の歩みにおいては、神様が調整されます。

成長には近道はありません。

霊的成長は、神様の速度で行われます。

ですから、主がなさいますから、そして、ひとり一人に会った速度をお持ちです。

神の御国では、私たちは大人ではありません。

最初は赤ちゃんです。

神様の愛の中にいることを信じてください。

 

霊的成長には時間が必要です。

本当に忍耐が必要です。

 

神の御国の世界に進んでいきましょう

 

祈ります

愛する父なる神様、今日の礼拝を感謝いたします。私たちは、この一週間の歩みを終えて、新しい主にある人生を歩む力を受け取りました。心からの感謝をいたします。毎日、悲しい事件が起きています。特に今日は、赤ちゃんがほしい人が沢山いますから、自分の手で赤ちゃんに手をかけませんように、聖霊様、あなたはどの方にも平等に愛しています。ですから、この日本の地で、堕胎が起きないように心から願います。堕胎をする方がこの私のホームページを読まれたかたにお願いします。その人にこのホームページを紹介くださいますように切に祈ります。この世の世界で生きることは大変で、学校えいじめで自殺をしたりせずに、主イエス・キリスト様の愛を知りますように、祈ります。どうか、この一週間が主の恵みの中で歩むことが出来ますように。祈ります。

アーメン