2016510日  礼拝メッセージ

               風は思いのままに吹く  ヨハネ3115

 

1、さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。

2、この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、誰も行うことが出来ません。

3、イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません。

4、ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのように生まれることが出来るのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」

5、イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。

6、肉によって生まれる者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

7、あながたは新しく生まれなければならない、と私が言ったことを不思議に思ってはなりません。

8、「風はその思いのままに吹き、あなたその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者はみな、そのとおりです。」

9、ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

10、イエスは答えて言われた「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことが分からないのですか。

11、まことに、まことに、あなたがたに告げます。私たちは、知っていることを話し、見たことを証しを受け入れません。

12、誰も天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

14、モーセは荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

15、それらを信じる者はみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

16、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりも滅びることなく、永遠のいのちを得るためである。

 

アーメン

 

サンへドリンの議員でパリサイ派に属するニコデモが夜、人目を忍んでイエス・キリストさまに会いに来ました。

パリサイ人は聖書の中ではイエス様に敵対する者たちとして聖書に書かれてありますが、ここに登場するニコデモのようなパリサイ人もいたことをまず理解しましょう。

 

ニコデモは、イエス様さまに深い関心を寄せていた人物でありました。病の者をいやし、悪霊に縛られている人をいやし、多くの方々を真の御国を語り、ユダヤ全土に福音を語るこのイエスは、どのような人物だったのかと非常に興味を持ったのでしょうか。人目につかずに夜に訪れたと書かれてあります。

 

2、この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、誰も行うことは出来ません

 

ここで、ニコデモは「ラビ」と呼んでいます。

ユダヤ教の「教師を呼ぶ尊敬する呼びかけ」です。

 

ニコデモは、イエスさまを教師と呼びました。これは、イエスさまがこれ以上のお方とは認識していないことが分かります。ニコデモはイエス様の奇跡やいやしや悪霊追い出しといった現象を見て、イエス様に語りかけたのです。イエスさまは言われます。それも単刀直入にニコデモの心を突き刺す言葉を語りました。

 

“人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることは出来ません”

 

ニコデモは新しく生まれることは不可能だと言ったのです。

 

このイエス様の言葉は今まで、考えたこともなかったことばであったのでしょう。

 

ニコデモは答えます。

「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることが出来るのですか。

もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。

 

イエス様は“霊的領域で語りました”

しかし、ニコデモは、この“世的考え方で答えました”

 

ニコデモの信仰は、“人には出来ないが神には出来る”という信仰は持ち合わせていません。

 

へブル111

1、信仰は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものです。

 

信仰とは、自分の目には見ていないけれども、求めるものは今はまだ見えないけれど、それはなると信じて歩むことです。

 

他者から見ると愚かに見える真理を土台にしています。

 

イエス様を信じた者は、他者のことを先にします。

自分は10番目、と考えることが聖書的生き方です。

困っている方がいれば、その方の問題を解決する道筋を語ることは出来ます。

 

良きサマリヤ人の話をしました。覚えていますか。

強盗に襲われて、ひん死の状態にあるユダヤ人を見て、同じユダヤ人でしたが、律法学者、パリサイ人は見て見ないふりをしました。そこへ、サマリヤ人が歩いて来ました。その時に、サマリヤ人は、最も憎むべきユダヤ人を介抱し、ロバに乗せて旅館に行き、帰ってきたら足りない分はその時支払ますからと、言いい、出かけました。

 

イエス様は、誰がその人隣人になったかと問いました。

 

このサマリヤ人の行為は、世的考え方では“愚か”に見えるでしょう。

 

Ⅰコリント11718

17、キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けるためではなく、

福音を聖べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために。ことばの知恵によってはならないのです。

18、十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

 

パウロが自分自身を語っています。イエス・キリスト様を語らないのなら、十字架のイエス様はいないと云うのと同じ。十字架は実体を持った事実である。十字架の言葉は聖書の全てのすべて、そんなことがあるのかと云う人々にとっては、滅びに至る、イエス様を信じない人々にとっては実に“愚か”である。

しかし、信じる者には神の力である。

 

“信じる者には神の力である”

 

イエス・キリストさまは“絶対者”です。繰り返し言いますが、“絶対者です”

 

イエス・キリストさまが、もしいないならば、アバ父もいないし、聖霊様もいないのです。

そうであれば、私たち人間もいないのです。

生命の誕生がないからです。

 

ある人々は言うでしょう。

人間はアメーバ―から進化して人間が出来た。

みなさんはそう思いますか。

私たち人間の元の、元のさらに元のさらに元の~~~~アメーバ―だった。

 

とんでもありません。

 

Ⅰコリント1:28

28、また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、「有るものをないものようにするため、無に等しいものを選ばれた。」

この御言葉はどういう意味でしょうか。

 

私はすぐれた者だ。私は、すぐれているから強いのだ。

そう云うことを語ってはいけないとパウロは語るのです。

神様の御心は、無に等しいものを選ばれるんです。

 

ここにいるみなさんは、自分が誰よりも優れているとは思いませんね。

 

人間は間違いを犯します。

ある時は、自分が傲慢になってしまい、人の心を見る“霊的目”が“盲目”になってしまったり、ある時は、“自己満足に陥り”ます。

信仰は義務感ではありません。

 

愛によって主に仕えます。

神様は約束されたとおり、あなたを赦しました。

その代価にゆえに救われました。

これは神様の一方的な愛です。

ですから、人を赦します。

 

パウロは力強く語ります。

 

コロサイ31217

12、それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

13、互いに忍び合い、誰かがほかの人に不満をいだくことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

14、そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯びとして完全なものです。

 

それ故に、深い同情心慈愛謙遜柔和寛容を身につけなさい。

互いに忍び合い互いに赦し合いなさい。

 

愛は結びの帯として完全です。

 

心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、精神を尽くし、神を愛せよ。

自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。

とイエス様は語りました。

 

聖霊様により頼んで、神の御国が前進するように、

教会は祈りの塔として歩めるように。

聖霊様の声を聞ききながら、人生の歩みを一歩、一歩です。

 

私たちは、小さな者ですから、一歩、一歩ですよ。

急がないでください。急ぐと転びますから。

 

聖霊様の声を聞くことは、実際に聖霊様の声を聞く賜物を与えられている方もおります。でもそういう人も、御言葉が神の声ですから、御言葉に聞きます。

 

神様は大きな未来と祝福を用意さえています。

信じる者は幸いです。

 

アーメン

 

さて、ニコデモは母の胎に入るなんてどうやって入るのですか。と、疑問に思ったわけです。どうやって母の胎にはいるのか。

すると、イエス様は言われます。

 

5、イエスは答えて言われた。「まことに、まことにあなたがたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることが出来ません。

6、肉によって生まれる者は肉です。御霊によって生まれる者は霊です。

7、あなたがたは新しく生まれなければならない、と私が言ったことを不思議に思ってはなりません。

 

ニコデモが生きる次元は、「現象的」でありました。

イエス様が言われたことは「霊の領域」を言っています。

 

ニコデモにとりましては、新しく生まれるとは、母の胎に再びはいることを考えたわけですが、それ自体が不可能なことを言います。

 

イエス様は、新しい人生を生きるためには、水と御霊によって生まれることだ。この言葉は不思議に思うのですか。と

 

神には不可能なことはない。とニコデモは思っていたに違いないと思うのです。何故ならば、ラビ、教師は旧約聖書の専門家です。旧約聖書で預言されているメシア、はこのお方だと云うことが出来ませんでした。

 

少し、触れてみましょう。

 

イザヤ967

6、ひとりのみどり子が、私たちのために生まれる。

ひとりの男に子が、私たちに与えられる。

その名は、「不思議な助言者、力ある神、

永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

7、その主権は増し加わり、その平和は限りなく、

ダビデの王座に着いて、その王国を治め、

裁きと正義によってこれを堅く立て、

これを支える。今より、とこしえまで。

万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 

 

イザヤ書のイエス様の誕生の預言です。

 

 

イザヤ5310

10、しかし、彼を砕いて、痛めることは

主の御心であった。

もし彼が、自分のいのちを

罪過のためにいけにえとするなら、

彼は末永く、子孫を見ることができ、

主の御心は彼によって成し遂げられる。

 

 

ここは、イエス様の最後、十字架を預言しています

 

 

教会は、これらの御言葉の中で、自らの預言を受けることが出来ます。預言は旧約の古い時代のものではありません。もし、このことが信じられないなら、ニコデモと同じになります。みなさんは「預言を信じますね。」

 

 

これから、“ジョージ・ミュラー”の働きを紹介します。

 

彼は、ロシアで生まれましたが、イギリスにわたり、宣教師としてイギリスに遣わされました。そして、「孤児院を設立」しました。

19世紀、イギリスでは「神は必要ない。」という云われた時代でした。

ミュラーは人々の不信仰な時代に、神は過去も、現在と今日も、未来も生きておいでだという信仰で「孤児院」を設立しました。孤児院を設立は彼の祈りによるものでした。彼は、ただ頼るところは、神以外にいませんでした。

彼の人生は、聖霊様の介入の中で全うされました。奇跡の歩みでした。

ミュラーの父親は、酒のみでその家庭環境は平坦ではありませんでした。混乱した青年期は、刑務所を行ったり来たりしていました。警察は彼の手をやいて、何回も釈放されていました。悪に染まったミュラーの前に、ひとりの牧師と出会いました。彼の回心は、瞬間的のものでした。牧師と会話をしている時に、自分の過ちに気づきました。瞬間的にミュラーの人生が180度変わったのです。

聖霊様がミュラーの心の中にはいった時です。

 

悪い癖と云うのは、一瞬に直すことは出来ないが、それでも神様は、神の子になった人を絶対に見捨てないのだよ。気落ちせずに罪と戦いなさい。

 

この牧師の言葉に、“彼の心の奥深くに何かが響きました”“何かが、音を立てて崩れる音を聞いたのです” そして悔い改めて、彼の人生まったく変えられました。それから、彼は毎日朝4時に起きて、祈りながら自分と戦って。救済不可能の非行少年ミュラーは19歳の時に「ハレ大学の神学校に入学」しました。ミュラーは宣教師になる決心し、イギリスに渡ります。

 

プリストルに教会を開拓したミュラーは孤児たちが収容されてい救貧院の子どもたちは食べることが出来ず、骸骨のようだったと彼は言う。ミュラーはまた、孤児院を設立する時、人々は、食べさせて、寝かせなければならないのに、どのようにして孤児院の子どもたちを生かすことが出来るのか。と批判がと忠告が吹き荒れた。

 

その時、詩篇81:10の御言葉が与えられました。

 

10、私が、あなたの神、主である。

私はあなたをエジプトの地から連れ登った。

あなたの口を大きくあけよ。

私が、それを満たそう。

 

ミュラーは、私が孤児院を設立したことは偶然ではない。神様が親しく私の心に与えた願いであることを信じます。私はあなたの種として働くだけだ!

 

ミュラーの信仰的態度に感銘を受けた人々は孤児院運営財源を用意するバザーを開き、募金運動をしようと提案した。しかし、ミュラーはこれを断わりました。彼は、一度に用意した物質によって孤児院を運営することは神の御心ではないと思ったのです。初めから最後まで、支援してくれる人々の送金や献品で孤児院を運営すると宣言して、孤児院が設立しました。ミュラーは信仰の戦いでした

孤児院で最後に残った小麦粉を作って夕食の食卓を整えると、次の日の朝のために祈らなければならない日々が繰り返されました。ミュラーは絶えなく祈り、孤児院に必要なすべてのものを切に求めたのです。

 

彼が祈った物品と食べ物は、いつも間違いなく供給されました。時には神を信じない人々まで彼の孤児院を助けたのです。

 

暴風で荒れた次の日の朝、孤児院には食べるものは何も残っていませんでした。400人の孤児たちと一緒に食卓に座って、ミュラーは手を取り合って食事の祈りを捧げました。祈りが終わった時に、一台の馬車の運転手が孤児院の門を叩いたのです。その馬車には、「朝に焼いたパンと牛乳がいっぱいありました。」隣接する工場で従業員たちのために運動会が開催されることになっていたが、雨でキャンセルされて、孤児たちに食べてもらおうと思ったのです。奇跡ですよ。

 

ミュラーはこのようにして孤児院を運営した65年間、奇跡的な神様の供給を体験しました。彼は、神様は求める者に一番最良なことをしてくださると信じて疑うことなく信じ、その信仰は事実として証明されたのです。

 

ジョージ・ミュラーは、年老いた頃、孤児院の運営をジェイムズ・ライトに任せ、イギリスを含むヨーロッパ、北米、オーストラリア、アジアの各国を旅行して自らが体験した神様が生きておられることを証しして回りました。

 

彼は、教派を超越してキリストを愛する者は、みな家族と考えて、招待されて、世界を歩いたのでした。

 

1898年早朝、ミュラーは天に召されました。前日まで忙しくしていたのです。

彼が初めて、牧師の言葉に瞬間的に変えられたように、彼の最後の地上での働きを終えて、瞬間的に、何の苦痛もなくいのちを閉じました。

 

現在はこの孤児院ではなく、困っている方々を救済する働きをして継続されています。

ジョージ・ミュラーも聖霊様を語っています。

さて、イエス様はニコデモに語ります。

8、風はその思いのままに吹き。あなたがたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。御霊によって生まれる者はみな、そのとおりです。

風は聖霊様です。

聖霊様は、求める者に吹きます。御霊によって歩む者に吹く。聖霊様が自由に動かれます。

 

するとニコデモは答えます。「どうしてそのようなことがありうるのでしょう。」

 

イエス様は、ニコデモとの問答を通して、“霊的な言葉を語ります”

19

9、ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょうか。

10、イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことが分からいのですか。

11、まことに、まことに、あなたがたに告げます。私たちは知っていることを話し、見たことを証ししているのに、あなたがたは、私たちの証しを受け入れません。

12、あなたがたは、私が地上のことを話した時、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 

イエス様は、ニコデモの「霊的洞察力の鈍さ」を嘆きました。人を創り変え、人の内面が一瞬の内に変えられることが分からない。

 

アメリカでビリー・グラハムとう大伝道者がいます。現在、彼は引退し、息子の、フランクリン・グラハム師が後を継いでいますが、グラハム師の聖霊様の力を受けて語る、一言、一言の“ことば”によって、人生を完全に180度転換されている光景を思い出します。ジョージ・ミュラーが一瞬にして人生を変えられたのと同じように、それは聖霊様が働くからです。聖霊様以外の誰でもありません。

 

アーメンですか

 

 

最後に、聖書の中心の御言葉を語ります。

316

16、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを受けるためである。

 

この御言葉は暗記しましょう。

 

 

祈ります。

ハレルヤ!主の御名をあがめます。愛する主よ。今日も一週間の旅路を終えて、あなたの御前で礼拝をしています。この事実がどれ程素晴らしい一瞬であるかを思わされます。今日は、イエス様とニコデモとの会話を通して、イエス様、あなたが語る一言、一言に耳をかたむけました。私たちも、同じことをイエス様が言われていることの迫りを感じました。私の“霊的洞察力”がいつも新鮮でありますように。あなたの語りかけを、すぐにキャッチ出来ますように、聖霊様、あなた求めます。毎日の生活の中で、いつも聖霊様がご一緒であることを深く信じます。聖霊様、来てください。聖霊様、おはようございます。聖霊様、おやすみなさい。この言葉が自然に私たちの口から出てきますように導いてください。御言葉にいのちがあることに鈍くならないように、あなたの御前に出る時に新鮮でありますように。この新しい一週間を守ってください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祝福し祈ります。  アーメン