ヨハネ17:16~22
■とりなしのない伝道は、起爆剤にない爆発物。
伝道のないとりなしは、爆発物のない起爆剤。
■血液に酸素を送らなければ、人間は死んでしまいます。とりなしも同じです。
■ ヨハネ1:1
1、初めに言葉があった。この言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
ここで「共に」とは「面と向かって」という意味。
アバ父と御子は永遠に触れ合っていて、両者を妨げるものは何もない。イエス様は父なる神との交わりを常に持っておられました。
■私たちは、常に防御することが
■「福音は爆発的な力」「爆弾」ですが「祈りという起爆剤」があって力を持ちます。
■とりなしは「霊の戦い」すなわち悪魔悪霊どもとの対決です。
■祈りは、神の戦略の一つ、伝道は「霊の戦い」に欠かせません。
■ ルカ11:24~26
24、汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさ迷いながら、休み場に捜します。一つも見つからないので、「出て来た自分の家に帰ろうと言います。
25帰ってみると、家は、掃除をしてきちんとかたずけていました。
26、そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの悪霊も7を七つ連れて来て、みな入り込んでそこを住みつくのです。その人の後からの状態は、初めよりもさらに悪くなります。
■悪霊追い出しをしても、その後の信仰の維持がないと、ますます悪くなってくるのです。
■ Ⅱコリント6:7
7、真理の言葉と神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、
■「義の武器」とパウロは書きました。その時代は、ユダヤはローマの属国だったので、ローマ軍の装備を見て、霊の戦いの道具を説明しました。
■クリスチャンが持つ真理の言葉、は神の力です。
■イエス様は父と語り合うために常に祈っていましたが、どこへ行っても群衆がついて来るので、朝早く、静かな場所に退いて祈られていました。
■子供が成長していくのと同じように、クリスチャンになったばかりの祈りはたどたどしいものです、しかし、神様はその祈りを聞いておられます。主の恵みが時間の中で溢れていくと「腹の中から命の水が湧き上がる」ます。
■新約聖書で「世」と語られる時、多くは「コスモス」という言葉が使われます。コスモスは「世」「世界」を指している。つまり、神の原則に従って世で生きる。ということです。
■「この世は罪の原則が働いている場所。」ここで「世」という言う場合は悪魔悪霊どもを指している。この世は武力のぶつかり合い。
■ ヨハネ17:16~17
16、私が世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17、真理によって彼らを聖め別って下さい。あなたの御言葉は真理です。
■この世は罪の原則が働いている場所です。ここで「世」と書かれてあるのは、悪魔悪霊どもの世、世界を指します。悪魔悪霊どもとの霊の戦いは「義の武力」が必要です。義の武力である祈りが積まれていかないと簡単にやられてしまいます。
■祈りは自分自身の事と、他者の事を祈りの中で覚えること。
■とりなしの祈りは「霊の爆弾」、「その背後に聖霊様の力が働いています。」
■イエス様は、アバ父と直接語り合っていました。イエス様の祈りは、私たちの「水先案内人」です。
■十字架と空の墓こそ、「最大の発電所」
■イエス様が祈られたのは、私たちが祈り方を学ぶためです。
■ ローマ人への手紙8:34
34、罪に定められようとするのは誰ですか。死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスですが、神の右に座に着き、私たちのために「とりなし」て下さるのです。
■イエス様は、私たちのために「犠牲」を払って下さいました。私たちの罪を赦すために「主の犠牲」が払われました。イエス様は「へりくだる」人となることを選びました。「苦しみの人」「悲しみの人」となり、「ついに命まで捧げ」て下さいました。
■この終わりの時代にあって、日本は「リバイバル」の恵みに預かるのは、もう間もなくです。心を整え、具体的な準備をしなければなりません。小さな教会に多くの人々が教会に来るからです。私は、長い間、日本のリバイバルのために祈り続けてきた一人です。日本では特に、聖霊派の教会、牧師がその中心となって祈りを重ねてきました。私は、わくわくします。リバイバルが訪れた時に、あわてないようにするためにです。
■この終わりの時代にあって、教会は形式に捕らわれている暇はありません。「神の資源」であるは御言葉をより多く貯めるのです。
■十字架と空の墓こそ「世界最大の発電所」です。
■ ヤコブの手紙5:16
16、ですから、あなた方は互いにち罪を言い表し、互のために祈りなさい。癒されるためです。義人の祈りは働くと大きな力があるからです。
■「祈り」は時に叫びとなり、時に涙となり、時に感動し、時に感謝が伴います。人間に与えられている五感を持って果たす私たちの力です。
■「叫び」はある時は「言葉にならない」ときがあるでしょう。
ある時は「情熱的」に大きく羽ばたくような感覚になる時もあります。「祈りは大きな声を出さなければいけないというものではありません。間違えないで下さい。大きな声をだしたから、主は聞かれるのではありません。聖霊充満になって大きな声になればそれは自然です。
■「自己犠牲」はクリスチャンの生きるあり方です。「自分を神に捧げることです。」悪魔悪霊どもは、こういうクリスチャンを攻撃します。ですから聖書は語るのです。「とりなしと力の伝道」が教会に力強く働くように祈っていきます。
■教会は喜びの共同体。自分自身よりも隣人を喜ばせる時に、「教会は喜びの共同体」となる。ほかの人を喜ばせるためには、「人を自分より優れている」と思うこと。隣人のために汗を流す人になることに誠実でありましょう。
■とりなしの祈りは爆弾です。 ハレルヤ!!