使徒働き9:1~18
■私たちの人生の中には、不思議な神との出会いや導きがあるものです。また、時に道をまち間違えるようなこともあります。しかし、その歩みにおいても神の助けあるのです。
■神の働き人であったパウロは最初から神の器ではありませんでした。神と出会うまでクリスチャンを迫害し、苦しめていた存在でありました。
■使徒9:1~2
1、さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2、ダマスコの初会堂あての手紙を書いてくれるように頼んだ。この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためだった。
■ここで「道の者」と書かれてあるように、当時はクリスチャンという名はありませんでした。ここで「道の者であれば見つけ次第縛り上げて」と記されています。
■この時代はクリスチャンを「道の者」と呼んでいました。ヘブル語では、「踏む」という動詞の名詩形が「道」となります。初代教会のクリスチャンは、迫害を覚悟し、踏みつけられることは覚悟していました、人々が救われるために自分が踏みつけられることは幸いであり、使命だという信仰を持っていたのです。
■彼らは喜んで犠牲を払い、喜んで他者のために生きていました。この歩みは今日の私たちにも言えることです。
■さてパウロは、道の者迫害をしていた時代は「サウロ」という名前でした。
その迫害者サウロにイエス様が現れたのです。
■使徒9:3~6
3、ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来た時、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
4、彼が「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった「私は、あなたが迫害しているイエスである。
5、立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。
■サウロの歩み、人生はこの瞬間から180度転換され、神の働き人となっていきます。
■イエス様は、「何故私を信じる者たちを迫害するのか」ではなく、「何故私を迫害するのか。」と言われました。クリスチャンを迫害することは、即イエス・キリストに触れることだという意味です。
■サウロは3日間、食べることも、飲むことも出来なくなった、すなわち、「彼の内側にあるプライドが砕かれます」
■神に用いられる器は、必ずプライドを砕かれます。砕かれた経験のある人は神の働き人として、神に用いられるのです。これが、霊の法則です。
■私たちは、人生の中で弱さや侮辱を経験する時があります。また、言われのない中傷が飛び交っていたという経験があるはずです。サウロは霊的原則を神から学びました。私たちも同じです。
■サウロを助けるために、神様はアナニヤという神の人に語ります。彼は私が選びの器である、彼を助けなさい。アナニアにとっては迫害の筆頭者である彼のために祈ることは到底考えられないことでありましたが、神に従い、サウロはアナニアの祈りによって救われました。
■神様と親しくされることは、祈りを通して私たちは「悔い改め」に導かれます。イエス様が十字架にお掛かりになり、私たちの罪のために身がわりにあり死んでくださったのです。
■このイエス様に触れられて、ここからパウロになります。
■私たちが、どのような試練に直面しても、神様の目的に置かれていることには変わりありません。
■ヨハネ黙示録3:18
18、私はあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金を私から買いなさい。また、あなたの裸を恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい。
■私たちは、見分ける感覚を鋭く磨く必要があります。神様からのわざなのか、悪魔からのものなのかを、見分ける「識別力」は御言葉の中からしか磨かれません。
■私たちは世に生きています。どの人も完全ではありません。完全さに向かって生き、歩む者です。私たちは物事を進める時、失敗し、挫折し、立ち塞がる壁の前に立ち尽くす時がしばしばあります。
■しかし、イエス様を信じる者は、神の時の中で守られています。
■ネへミヤ8:10
10、主喜ぶことは、あなたがたの力です。
■私たちはコピーではありません。エリヤの使命はエリヤしか出来ない内容でした。エリシャはエリシャにしか出来ないものでした。みなさんも同じように、神様から精錬されて主の働き人となるのです。私たちは、リバイバルのチームの一員なのです。