Ⅰテサロニケ5:16~23

■いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事において感謝しなさい。とパウロは言います。この3行の御言葉は簡単ではありません。しかし、聖書はこのように書かれてありますから、私たちは、主の御心に近づいていきます。

■私たちは、イエス・キリストの名をいただいた特別な特権を与えられた者です。強いられて礼拝するのではなく、喜んで膝をかがめ、自ら選んで、心低くして、主の前に出て、心開いていきます。

■霊の領域において、距離は関係ありません。天はどのくらい高く、遠いのでしょうか、飛行機で飛んで、天が近くなるのでしょうか。天の御座がここにあります。今生きている主に礼拝を捧げる時に、主は「ここにおられるます。」

■イエス・キリストは完全な人であり、完全な神です。
イエス様は「まもなく来る」言われました。イエス様の言葉は必ず成就します。ですから、この時代は「終わりの時代」「終わりの時」なのです。「時は短いのです。

■イエス様が十字架は、この暗闇の中で、全人類の罪に対する「神の怒り」がイエス様ご自身が「呪い」となり、「呪いそのもの」となって神に捨てられた3時間でありました。⇒ ガラテヤ3:13
13、キリストは呪いとなって、律法の呪いから贖い出して下さった。聖書に「木にかけられた者は、全て呪われる。

■この最後の3時間は、イエス様にとって「苦痛となり、呻きとなり、神様は、我が子イエスを怒り、呪い、顔を背け、地獄の苦しみへと見捨てられた。この最後の3時間の断末魔の主の苦しみは、打たれたムチの千倍もきつく、十字架の苦しみの万倍も辛い、神の怒りの処罰でした。

■マタイ15:33~34 ⇒ 最後に「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」我が神、我が神、どうして私を見捨てられたのですか。の意味。

■ゲセマネではでも、十字架を担いでピアドロローサの坂を上っていた時も、神はイエスの父であった。しかし、イエス様の生涯でただ一度、神を父よと呼ぶことを許されなかった。それが「十字架の呪い」であった。

■この十字架は私たちの罪でありました。この罪を赦すのは、まったき罪のないイエス様しかいなかった。イエス様はゲッセマネで「苦い杯」と言いい、主の覚悟以上の苦しみだった。

■イエス様の十字架の死とよみがえりは、神様が私たち人間に祝福を与えたい願いであった。私たちが救われるためであった。

■神様が与えた『人間の資格』は、『神の愛を信じ、受け入れ、自分の罪を知り、悔い改めることが出来る能力を持つと言うこと』でありました。

■『神様の贖いの計画』の十字架は、クリスチャンの生涯、決して忘れてはならないことです。何回聞いても、全て自分のためです。

■十字架は、私たちの『罪を覆う』行為でした。『覆う』とは『人間の罪をまるごと覆う』という意味です。

■イエス様はこの時、33歳の若さでした。その若い体が、衰弱の極致、肉体は弱り果て、痛みと呼吸も定まらない、そういう中で、神に見捨てられたのです。イエス様は頼るところを失い、孤高の中で呻き苦しみました。

■最後に『全ては完了した』ギリシャ語で『テテレスタイ』と一言を言って、死なれた。この意味は、『目的に到達した』『目的を達成した』『なすべき全ては完了した』という意味。

■ Ⅰペテロ2:24
24、そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は、いやされたのです。

■この十字架の出来事は毎日決して忘れてはいけない。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
全てのことについて、感謝しなさい。この御言葉を確かなものになるように信仰を養っていくのです。