イエス様誕生の知らされた方たちは、羊飼いでありました。その時代、羊飼いは、最底辺の働き人でありました。市民権が与えられていません。ですから、ローマに追われていた者は、羊飼いの群れの中に隠れるということは簡単に出来る時代でありました。
人は生きるために生まれますが、イエス様は死ぬために生まれました。
イエス様は、死体を包む布にくるまって飼葉桶に寝ていました。
これは、イエス様の生き様を現していると思います。
現在、オメガ・バイブル・スタディーで、主の働きをされている、スチーブンス・栄子師が、次のような内容で、イエス様がお生まれになった場所は洞窟。ということを話されています。そこを、私の言葉も含めて、次のような内容を、語られています。
ベツレヘムの近くに、羊飼いの野と呼ばれる場所があって、この場所に 「無数の天の軍勢が現れた」と。書かれてあります。2,000年前のローマの時代の1つの軍勢は、5000人から6000人でありました。ルカ2:13
しかし、羊飼いたちが目にしたのは無数の天の使いたちでありました。人々から見下げられていた存在であった羊飼いたちでありました。イエス様が誕生したことを知らせるために選ばれたのは、羊飼いでありました。
羊飼いは、市民権も剥奪され、世からさげすまれていました。イエス様が、洞窟で、誰も知らるれこともなく、静かに、お生まれにった出来事は、聖書で知らされている私たちも、同じように、ささやかに、静かに、イエス降誕を喜びたいと思います。
現在、「羊飼いの野」と言われている場所に、教会が建てられ、その教会の教父が、2000年前の墓石が2枚見つかり、その墓石に「あれを見た所に埋めてくれ。」という言葉が刻み刻み込まれていたのです。この墓石の言葉を軽く見てはいけません。
ルカ2:8~18
8、さてその土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9、すると主の使いが、彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、、彼らは、ひどく恐れた。
10、御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のための、素晴らしい喜びを伝えに来たのです。
11、今日、ダビデの町で、あなた方のために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、キリスト・イエスです。
12、あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどり子を見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。
13、するとたちまち、その御使いと一緒に、多くの天の軍勢が
現れて、神を賛美して言った。
14、いと高き所に、栄光が、神にあるように。
地の上に、平和が、
15 御心にかなう人々にあるように。
16、御使いたちが彼らを離れて、天に帰った時、羊飼いたちは話し合った。
さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせて
くださった、この出来事を見てこよう。
17、そして急いで行って、マリヤとヨセフと飼葉桶に寝ておられるみどり子を捜し当てた。
18、それを見た時、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
羊飼いたちは、さあ、この出来事を見てこよう!
私たち見に行きます
ルカ2:25~35
25、その時、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上に留まっておられた。
26、また、主キリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
27、彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れてた両親が、その子のために、律法の慣習を守るために、はいって来た。
28、するとシメオンは、幼子を腕に抱き、神を誉めたたえて言った。
29、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを
御言葉とおり、安らかに去らせてくださいます。
30、私の目があなたの御救い(みすくい)を見たからです。
31、御救いはあなたが、
万民の前に備えられたもので、
32、異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの栄光が、
33、父と母は、幼子についていろいろ語られたことに驚いた。
34、また、シメオンは両親を祝福し母マリヤに言った。
ご覧なさい。この子はイスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるため
に、定められ、また、」反対を受けるしるしと定められています。
35、剣があなたの心さえも刺し貫きでしょう。それは多くの人の思いが、現れるためです
しかし、その時代の方は、すごい力を備えていると思います。マリヤは出産してすぐに、エルサレムへ向かいます。私などは、少し休んでから行けばいいのにと思いますが、違うのですね。ナザレからベツレヘムに行く着く時も、ロバに乗って、今度は、3人家族となって、すぐさま、エルサレムへ向かいます。そして、ベツレヘムから、エルサレムに行き、イエス様は割礼を受けます。理由は、8日目に、幼子の男子は、割礼を受けなければならないと、それに従ったのです。
家族3人は、エルサレムへ着きました。何のために行くかと言いますと、イスラエルの国には、厳格な、非常に強い律法がありまして、幼子を聖別するために、生まれた男の子に割礼施すのです。割礼とは、男の性器の包皮を切除することです。イエス様も人として生きるスタート地点に立ったことを意味します。
マリヤが受胎する前に、御使いから、「イエスと名ずけなさい」と言われましたが、エルサレムで初めて、「イエスという名が公けになった」わけです。「この名こそ、すべての人々の救い主であります。」
イエス様が割礼を受けることは、イエス様が、アブラハムの子孫に一人に加えられ、モーセの律法の下に置かれたことを意味するのですが、イエス様が人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順した。人間と同列に自らを置いた。そういう意味です。
次に進みます。
22、幼子を、主に捧げる。自分の子供であり、自分の子供ではない、神様からの預かり者であるのですよ。あなたの所有物ではありません。主に捧げるのです。という内容です。
24節に、また主の律法に「山鳩一つがい、または、家鳩のひなを2羽。」と定められてところに従って犠牲を捧げるためであった。
ヨセフとマリヤは割礼を施すために、エルサレムへ来たわけです。
と書かかれています。
それはいけにえのことなのですが、
今日はここが主題ではありませんから、ここまでにします。
26、その時、エルサレム神殿にシメオンという名の人がいました。この人は信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。また、シメオンは、聖霊様が彼の上に宿っていたと書かれています。聖霊充満です。その理由は、イエス様を見るまでは決して死なないと心に決めていました。それは、聖霊が彼の上に留まっていたのです。すごい人です。
シメオンは老人でありましたが、『3つの祝福に預かっていました。』
「正しい人。」
「敬虔な人」。
「待つことを出来る器でありました。」
正しい人だけではなく、敬虔な人だった。さらに、聖霊に満たされて、待つことを知っていた人物でありました。あわてないで、「その時を待つことが出来る」器でありました。
26、主、キリストを見るまでは決して死なない、聖霊のお告げを受けていた。
そのシメオンは、イエス様が最初に抱かれた他人は、シメオンでした。
27、彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために、律法の慣習を守るために、入って来たのです。
シメオンはイエス様が生まれることを知り、確認するために、神様から生きることを許された人物でありました。
ここで、シメオンがイエス様を抱くということが書かれています。きっと、シメオンは、すぐに分かったのでしょう。
28、すると、シメオンは、イエス様を抱きしめて、神様を誉め讃えます。
29、主よ。いまこそあなたは、あなたのしもべを、御言葉どおり、安らかに去らせてくださいます。
「御言葉とおり安らかに去らせてくださいます。」
主よ。しもべは、今まで待っていました。もう十分です。私は、その子を見るために、生きることを許されていました。しもべは、主が言われとおり、その幼子を見ることが出来ました。これ以上の幸いありません。どうぞ、私を主のもとに引き上げてください。と主に語りました。
30、私の目があなたのみ救い見たからです。
31、御救いはあなたが、
万民の前に備えられたもので、
この救いは、全世界の、万民の前に、備えてくださったもので、
32、異邦人を照らす啓示の光、
御民イスラエルの光栄です。
異邦人を照らす。
日本人は異邦人です。2000年後の今日、2017年12月24日、イエスキリストの光に照らし出されている私たちが、神様を礼拝しているわけです。
すごい預言です。
イエス様は、お生まれになった!
イエス様が、救い主がお生まれになった!
全世界の人々よ。救い主はお生まれになった!
イスラエルの民よ。救い主はお生まれになった!
イスラエルにとっては、神からの光栄です。光栄以外、何ものでもない。そういうシメオンの預言です。
33、ヨセフとマリヤは、幼子イエスを抱きながら語ることに、驚いていました。
34、また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受ける「しるし」として定められています。
35、剣があなたの心さえ刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが、現れるためである。
イスラエルの多くの人々を倒れさせたり、立ち上がらせたりするために、反対を受けるしるしとして、定められています。
あなた自身も剣で、刺し貫かれるでしょう。
私たちのことです!
34節に、「倒れる」「刺し貫かれる」という言葉があります。
35節に、「多くの人々の心にある思いが現れる」という意味ですが、
絶対者なるお方の前に出た時に、私が隠していたい罪が現れる。何も隠しとおすことは、出来ません。というそういう意味です。
私が、あなたが、イエス・キリストの前に出れば、自らの心の中にある思いが、明らかにかなる。
兄弟姉妹
ここが重要なのです。
イエス・キリストの前に出たならば、「あなたの罪が暴露される」「打ち砕かれる」のですが、それで木端微塵されるわけではありません。息も出来なくなってしまいう。そういう意味ではありません。もちろん、自らの心の内側が汚れていても、人間はみなそうですよ。
しかし、そのままで終わるのではありません。
― 悔い改めに導かれます。
私たちは、毎日悔い改めが必要です。
私は毎日、祈りを欠かさないのですが、私が、悔い改めをしないと、聖霊様は、しゅん!と消えます。これは怖いですよ!聖霊様に捨てられた気分になってしまいます。悔い改めるなら、聖霊様は、私を覆ってくださいます。ですから、牧師である私が、一番先に悔い改めないと、教会に集う人々に悪い影響を与えてしまいますから、いつも、気を付けています。
パウロ先生は、私は、自分でしたいと思う善を行わず、したくない悪を行っています。私の体の中には、異なった律法があって、それが私の律法に対して戦いをいどみ、私の体の中にある、罪の律法のとりこにしているのを見出すのです。
ローマ7:24
24、私は、本当にみじめな人間です。誰がこの体から、私を救い出してくれるのでしょうか。
私はめちゃくちゃで、何とみじめな人間だと嘆きます。
しかし、パウロ先生は語ります。
感謝します!感謝します!と告白するのです。
これは恵の何物でもない世界です。
さて、本題に戻ります。
25節、「聖霊が」、26節、「聖霊の」27節、「御霊に」
聖霊様は、第一に、マリヤの胎に中にはいりました。
シメオンが、聖霊に感じて宮にはいると、幼子に、シメオンはすぐの分かったのです。そして、次は、もう、幼子を抱いてとあります。
ここはすごいの一点張りです!分かるのです!
聖霊様以外以外に解釈出来ません。
ここはとても大切です。
聖霊様に触れられると、聖様様が宿っている人が分かるのです。
ここは、私もいつも学んでいます。
聖霊様と話すというか、感じるというか、
分かるのです。
それ以外の言葉が見つかりません。
御言葉にどおり
29、ヨセフとマリヤは幼子イエスについ色々知っているのに驚きます。
シメオンは、母マリヤに言います。
『見なさい。この方はイスラエルの中で多くの人々の倒壊と復興のために、また、拒絶されるしるしのために置かれています。
ヨセフとマリヤは、幼子について、いろいろ語られることに驚いた。
―驚き続けた。―
34、シメオンは、両親を祝福して、母マリヤに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの民を二つに分けてしまいます。ある者は信じて救われ、ある者は信じないで滅ぼされるでしょう。また、必ず反対する者が起こるでしょう。』
みなさん。
イエス様お生まれになった理由は、私たち、人間の罪をすべてイエス様が身代わりになったことが理由です。
さて、羊飼いは、イエス誕生の知らせを真っ先に伝えることを神様は選びました。
神様が選んだのです。
ここで考えてみたいのです。
私たちは、どうなのでしょうか。
この世、現代社会に生きています。
生きるためには、食べる物、住む家があります。一定のお金はあります。
貧乏であっても、生きています。
ここで、みなさんの知っておいていただきことがあります。
この世で生きているゆえに、何かが欠けていることを、私は感じています。
生きることで、何が一番、重要であるかということです。
自分は勝手に生まれて来たわけではありません。
私は、両親から生まれて来ました。
両親の愛から誕生したのですね。
これから私の証をします。
私は、関東学院大学神学部の学生でした。
私は、小学1年の時に牧師なりたいと思い、その思いは高校に至るまで消えることはありませんでした。しかし、私は、この時代に大きな人生を踏み間違えたのです。私がいたその時代は、日本が政治的に大きな転換点に立たされたのです。1970年安保条約が締結した時代でありました。また、目を世界に向けると、ベトナム戦争が起きた時代でもありました。私は、学生運動に走って行きました。
全国の大学は、ほとんど全共闘運動を中心として、学生運動がありました。
私の両親は、私がヘルメットをかぶり、デモ行進していることを知ったのです。そして、私を「勘当」したのでした。それから、私は、18年間、両親、兄弟と会うことも出来なくなったのです。
私は両親と18年間、関係が断裂してしまいました。私も拒絶していました。若かったと言えばそれまでですが、それにしても長すぎる時間でした。18年間、私も家庭を持つ身となっていました。ある日、子どもから、お父さんのお父さんはどこにいるの。お母さんはどこにいるの。と。言われたのです。私は答える言葉ありません。こまりました。あのね。お父さんのお父さんとお祖母ちゃんは死んだんだよ。と答えた瞬間、私の心は苦しみ出しました。
それから何年か経ったのですが、私の精神が限界に達して、会うことにしましたが、どこに住んでいるのか分かりません。教会に電話をし、さらに次の教会と、捜しました。ようやくつながったのです。仙台の奥地にいました。電車の駅で待っていてくれて、驚きました。あの、私に勘当を言い渡した、あの時の血気盛んな父は、杖をついていました。隣に妹も一緒でした。あの時は保育園に、毎日、学校へ行く時に、私の自転車に乗せていた、あの妹が、20歳を越えているのです。当たり前ですが、私は、浦島太郎になってしまいました。18年という長い時間は、みな成長し、一人前のなっている。この当たり前が、分かりませんでした。
私には、そういう時代がありました。
母は、私が中学生の時に使っていた聖書を大事に持っていました。その1ページ目に、「愛人君天国で会いましょう。」と書いていました。その聖書を大事に大事にもって、聖書を手の上において、私を思っていたのだと思います。親として18年間は、私が感じること以上に、考えられない苦痛を味わったのだと思います。私は親になって思うのですが、私が同じ目にあったならと、考えられません。私が、同じ環境になったなら、きっと私は気が狂うほどになっていたに違いないと思います。
聖書では、「愛なしには生きられない」と教えています。
道徳ではありません。
神様の愛です。
皆さんは、私のような馬鹿な生き方をされていないと思います。どうかみなさん。イエス様を心の王座に迎えてください。真の道は聖書以外にありません。イエス様に身をおいて、一回しかない人生を、正確に、間違えないで、考え、歩んでほしいのです。私は教会に、リバイバルが起きることを願い、祈る者です。必ず起こされると信じ切っています。教会の席がいっぱいに座る礼拝を出来ると信じ、信じ切ています。
あの、ナザレとは、ナッアール族の民は、周りから嫌われていました。理由は、最も小さな村から、救い主が生まれるという預言からでした。彼らは、ベツレヘムで、イエス様が誕生すると信じていました。信じて、信じ切っていました。信じ切ること、を学びます。疑うことは一時もなかったのです。
神様はこの信じ切る信仰を見ておられた。。神様の愛の中に生きることを、ここでみなさんに語っています。イエス様は、私のような愚かな者の歩みをしても、両親を悲しませ、苦しめた、私のような者のために、また、みなさんのために、十字架へ向かったのです。
イエス様は言われます。
ルカ9:23
23、誰でも私について来なさいと思うなら、自分を捨て、日々、自分の十字架を負って私について来なさい。
24、自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために、自分の命を失う者は、それを救うのです。
Ⅰコリント13:13
13、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で最も優れているのは愛です。
14:1
1、愛を追い求めさない。
イエス様の誕生。救い主の誕生。クリスマス日を覚える時です。私たちは、イエス様に何をプレゼントするのでしょうか。
私のプレゼントは、主の愛を現す者となること。
へりくだり、謙遜な歩みをすることです。
これが、イエス様への、誕生プレゼントです。
祈ります。
父なる神様、あなたの御子、イエス・キリストの誕生を心に留める日に、あなたを讃える礼拝が持てたことを、あなたの超自然的な方法で、お生まれされたことを、只感謝しています。そして、間もなく、この年が終わろうとしています。私たち一同は、それぞれが、イエス様誕生のプレゼントをしました。誰も尊いプレゼントです。ここにいる一人一人は、新しい思いを持って新たな人生の歩みをしれいます。すぐる一年間を思い返しています。主よ。どうぞ、ここに集っている一人ひとりの信仰が高められますように。教会がさらに、聖霊様のご臨在を現してきださい。
この祈りを主イエスキリストの御名によって、祝福し祈ります。