201718日  礼拝メッセージ

イエスさまの愛の中を生きる

 

ヨハネ1334

34、あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。私があなたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 

人生には、貧しさの中にある時期と豊かさを授かる時期があります。私たちは人生を生きる者です。それは、将来に向かって、神さまの御心を生きることを真剣に考える者でありたいのです。困難や試練や問題が襲って来る時があります。あるいは、喜びに満ちた時がやって来る時もあります。

 

私たちが、イエスさまの愛の中で生きることを選ぶならば、どんな困難や試練、問題も、不思議なように解決するのです。マイナスは必ずプラスになることを、みなさんは知ることになるでしょう。マイナスは必ずプラスになります。イエスさまが解決を与えて下さいます。

 

平塚の時代、教会員の結婚式が明日に迫った時、教会の天井にクモの巣があったので、掃除しようとして、はしごをかけて上ろうとしました。3メートルありました。その時に、はしごがはずれて3メートルから落ちてしまいました。意識はかすかにありましたが、今、何が起こっているのかが理解出来ませんでした。京子先生が救急車を呼んでくれました。意識がなければ東海大学病院、意識があれば平塚市民病院と決めていたそうです。幸いにも意識はありましたので、市民病院へ行きました。即入院でした。腰椎1番の圧迫骨折でした。途中をはぶいて、45日間寝たきり状態になりました。46日目に初めて「歩くリハビリの期間となりました。」これから3か月間、毎日湿布を張って痛い痛いの毎日になると看護師から言われましたが、最初の日に歩けたのです。平塚市民病院は長い歴史がある病院ですが、こんな人は病院が創立されて初めての出来事だと言われました。

周りのスタッフは驚きましたが、奇跡が起きたのです。聖霊さまが与えて下さった奇跡です。

さらに、つぶれていた骨が半分程出来てきたのです。医者は“おかしいな~”もう一度レントゲンをかけて、再び“おかしいな~”再びレントゲンをかけても、おかしいな~“これ以上しても仕方ないとあきらめたのです。医者は考えられないと思われようです。

 

イエスさまに生きる人には奇跡が起きます。

私は長い間、聖霊さまのいやしを信じ、人々に語ってきました。

私は多くの病にいやされる奇跡を体験してきましたので、確信があるのです。

あり得ないことが、あり得るようになる。
何故あり得たのでしょうか。
私の親しく交わりを持たせていただいている牧師先生たちが祈りに来てくれたからです。
イエスさまのように生きる。そう語る先生方が祈って下さったからです。
奇跡はあると言い続けている牧師先生たちです。
いやしの祈りは、数えることが出来ないほど体験していて、聖霊さまの働きを信ずる、牧師たちの祈りには力がありました。

 

信仰を持って歩むならば、祝福の人生になります。
みなさんも同じです。

 

祝福された人生を送りたいですか。

信ずる者は必ず得ます。

祝福された人生であっても、時に、大きな試練がやって来ますが、祝福された者には、マイナスは必ずプラスになるのです。

感謝して歩むことが出来るのです。

その世界を霊的世界と呼びます。

超自然的いやしと悪霊からの解放が来ます。

まさに奇跡です。

 

イエスさまは愛の人です。

イエスさまは、天から下りてきて下さいました。

天では、父なる神さまの右に座っておられた神さまです。

 

イエスさまは私たちに語りました。

私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

神さまの愛の中に生きるように。

イエスさまが大いなる愛を持って生きたように、私たちも愛し合いなさい。

 

そういう人生を生きたいと思いますか。

イエスさまを信じるならば、そういう人生になります。

 

マルコ114652

46、彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のものごいが、道ばたに座っていた。

47、ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんで下さい。」と叫び始めた。

48、そこで、彼を黙らせようと、大勢でたしなめたが、彼は」ますます「ダビデデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

49、すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい、さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。

50、すると、盲人は「上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

51、そこでイエスは、さらにこう言われた。「私に何をしてほしいのですか。」と言われた。すると盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

52、するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 

イエスさまは、バルテマイに聞きます。「私に何をしてほしいのですか。」

見れば分かるのでしたが、イエスさまは聞かれたのです。

すると彼は、自分からイエスさまに「目が見えるようになることです。」と語りました。もう少し聖書的に言うと告白です。

 信仰はまず、告白をすることから始まります。

ローマ書10:9~10
9、何故なら、もし、あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエス
を死者の中からよみがえらせくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10、人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

このバルテマイの中の幾つかのことが見えます。

 

バルテマイは盲人でした。何も見えませんでした。そのバルテマイは、この時を逃がしたら、一生涯目を閉じたままで終わってしまう。と思ったに違いありません。彼は、イエスさまがここにおられることに感動したのです。

 

イエスさま、私は目が見えませ~ん。
イエスさま、私をあわれんで下さ~い。
私は目が見えませ~ん。あなたはこの目を開くことがお出来になりま~す。私は信じていま~す。イエスさま~~と大声で叫んだのです。

 

その叫びはイエスさまの耳に届きました。さあ、あの人を呼んできなさい。

 

 みなさん、イエスさまのことばは愛に溢れているのです。「私になにをしてほしいのですか。」「はい、イエスさま、目が見えるようになたいのです。」優しく語りかけています。

 

イエスさまは、ここでバルテマイに手を触れたのでしょうか。祈られたのでしょうか。何も書かれていますせん。しかし、彼はいやされたのですね。

 

あなたの信仰があなたを救ったのです。とイエスさまは彼に言われました。

 

そして、イエスさまのあとをついて行きました。

 

彼は、イエスさまが来た時に、私はいやされると信じたのです。

信じるということは偉大なことです。

まことの神さまを信じる者が与えられる祝福です。

 

ここに、イエスさまの愛の中を生きる者の姿があります。      

 

もう一方、バルテマイが叫んだ時に、周りにいた人々が、バルテマイを黙られようとしたのです。うるさいな~。お前は関係ないだろう、お前が来るところではないんだよ、と見下げる姿を見ることが出来ます。

 

その姿は、まさに盲人です。バルテマイは肉的盲人ですが、人々はまったくの盲人です。信仰がありません。信仰がないと、イエスさまは見物で、まことに愛に溢れたイエスさまの本質を見ることは、ただ肉の目で見ていて、バルテマイの必死な姿と信仰を持った姿とは、次元が違います。

見物人は自分がいま何をしているのかが分かっていません。イエスさまの前で彼らは見ようとしていただけです。あの評判がよいイエスがエリコに来るって。イエスとは、どんな人だろうと思っただけです。

 

「単なる見物」していただけなのです。

 

バルテマイは目が見えない病の中にいるだけではなく、「人々から見捨てられていたのです。イスラエルの契約の民の一員とは認められていないかったのです。」

 

イエスさまは、バルテマイがそういう人物であることを知っていました。

 

このバルテマイの記事は、『肉的世界と霊的世界』の二つを、見ることが出来ます。

バルテマイは、プライドはありません見捨てられていましたから、正直に自らの罪を知っていたのでしょう。そういう彼の心は、ただ、目が見えるようになりたいと一心だったのです。大声で叫びました。みなさんだったらどうしますか。大声で叫びますか。バルテマイは両方があったのですよ。

 

肉的プライドは人間の成長をはばむものです。

プライドは霊的世界では具の骨頂です。

 

イエスさまは、十字架を前にして、最後の晩餐の弟子たちの足を洗いました。

 

ヨハネ135

5、それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰のまとっておられる手ぬぐいで、ふきはじめられた。

 

イエスさまの時代、足を洗うことは召使の仕事でありましたが、イエスさまが弟子の足を洗ったのです。ご自身を低くし、同時に弟子との関わりが、罪の清めであることを示されました。謙遜の極致を示されました。

 私たちは、謙遜を身に着けることを、生涯追い求め、追い求め続けるるように、祈ります。

霊的世界とは、飢え渇きを意味しています。

 

イエスさま!私はイエスさまをもっと知りたいのです。

イエスさま!私は、イエスさまのように生きたいのです。

イエスさま!心からの願いです。

あなたとお会いしたいのです。

 

アメリカに「スミストン」という小さな町があります。地図にものっていない場所で、500名しかいない町です。その小さな町に、リバイバルが起きました。

スティーブ・グレイという牧師がおられました。

先生は、牧師を辞めようと思っていました先生はありもしない中傷を受けて苦しみました。先生の心は破れてしまいました。疲れ切ったのです。打ちのめされて、回復不可能なまでに傷つき、自分は牧師として何の役に立たないと感じていました。神さまは、自分を見捨てられたと思ってしまいました。

 

教会の働きを2週間休みを取りました。しかし、先生はどこへ行ったらよいのかも分かりませんでした。

 

その時、奥さまのキャッシー夫人が言いました。

あなた。・ペンサコーラのブランズビル教会にリバイバルが起きているから、あなたそこへ行けばと勧めてくれました。先生は車で、ペンサコーラのブランズビル教会へ向かいました。

教会へ着きました。

沢山の人々がいました。伝道者・スティーブ・ヒル先生が説教をして、終わりに招きをするのです。悔い改めた者はここに来てください。と招きます。すると一斉に講壇の前に行くのです。先生も同じように、膝まずきました。すると先生の隣に立派な服を来た男性が大声で激しく泣いていました。先生は、この人はよほど大きな罪を犯したと思いました。先生はその時、はっと!この男性は神の前に、完全に心砕かれている姿は、自分もそれが必要だと思ったのです。私の欠けているものをこの方はもっていると思ったのです。心砕かれて、ただ主に空け渡している姿を見て、先生は全ての「プライドを捨てて、」大きな声で泣きました。

その時に聖霊さまからの、「わたしはあなたにリバイバルを与えたいのだ」という声を聞きました。

そういう体験をして教会へ戻りました。礼拝堂にはいり、キャッシー夫人にちかづくその瞬間に天から電流のような聖霊さまの力が激しく先生を打ったのです。先生は突然、先生の心に、喜びが跳ねるように湧き上がりました。両腕は宙に舞い上がり、先生は飛び、踊り、笑い、はじたのです。先生が苦しんでいたすべてから解放されました。そこにいた兄弟姉妹たちも同じようになったのです。リバイバルが始まりました。聖霊さまは素晴らしいですね。

 

先生が語ります。

1、神さまの力が私たちを引き上げる時、教会 は各自が必要を満たされるためにあるというだけではなく、クリスチャンが信頼と愛のうちに築き合う共同体であることが見えて来ます。

 

2、牧師の説教は、イエスさまにいつも注目されるように聞いてください。

礼拝はイエスさまを高め、礼拝でイエスさまを知り、御声を聞き、イエスさまのいやしと愛を体験するのです。

 

3、家族が変えられます。イエスさまが希望の光となります。イエスさまの人格が反映れます。

 

4、教会が世と区別がつかなくなる時、世の人々と同じ、貪欲と利己主義に満たされて、教会退廃します。

 

愛するみなさん

 

教会は、イエスさまを中心とした『愛の共同体』です。

みなさんは、霊的世界にいるのです。

 

イエスさまだけを追い求めます。

イエスさまだけです。

 

イエスさまはおっしゃりました。

マタイ633

33、だから、神の国とその義をまず、第一にもとめなさなさい。と。

 

「求める」とは、「追及し、追いかける」という意味です。

 

教会にイエスさまがおられます。

いま、イエスさまがここを歩いています。

イエスさまがおられるのに、イエスさまを追い求めなかったら、イエスさまは悲しみ、去って行ってしまいます。

 

イエスさまをもっと知りたい!もっと、もっと、知りたい!

イエスさまと、もっと、もっと親しくしたい!

 

教会初めてであっても、イエスさま、私はあなたがおっしゃる通りに生きたいです。イエスさまの愛に従いたいです。

 

私はいやされます。信じます。

 

みなさんにお願いがあります。
自分のためだけに生きないでください。
私たちは共に輝きたいのです。

 

あなたは輝きます。

自分のためだけに生きることを今日からやめます。

イエスさまの愛の中を生きます。

 

祈ります

愛する父なる神さま、あなたの御名を讃えます。今日もあなたの民が、イエスさまを求めて、教会に集っております。イエスさま、あなたがバルテマイの「ダビデの子、イエスさま。私をあわれんでください。と云う、必死の叫びをお聞きなり、バルテマイの目をいやしたことを御言葉を通して聞くことが出来ました。私もイエスさまの愛の姿を見て、私をあわれんでくださいと叫びます。プライドを消して、イエスさまの前に立ちたいと願います。聖霊さま、私を整えてください。イエスさまの御名によって、からだのいやしも、悪霊からの解放が出来ることを感謝いたします。今週もイエスさまを覚えつつ、歩みたいです。いつも守ってください。

この祈りを主イエス・キリストの御名によって祝福し祈ります。アーメン

 

 

 

 

 

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