2016年7月16日 礼拝メッセージ
新しい皮袋 マタイ9:16~17
私たちは、新しい皮袋に、沢山の油を入れて歩みます。油とは聖霊様です。今まで体験したことがない「霊の領域」入っていきます。
自らの命は主のものです。ここを良く知って下さい。
私は主の者です。
主の者はどういう者でしょうか。
私たちは、『損』と思えることをあえて選ぶ人生を歩む人です。
間違いなく『損』だと思えることに心を注ぐことに心を注ぐ。感謝して、喜んで『損』をそういう人生を歩むならば、それは御国生きている者の特権です。
パウロは言われました。
ピリピ3:7、8
7、しかし、私にとって得と思ったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
7、それどころか、わたしの主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴しさのゆえに、いっさいのもことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらを「ちりあくた」と思っています。それは、わたしには、キリストが得、
9、キリストの中にある者と認められ、律法よる自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰に基づいて、神から与えあれる義を持つことが出来る、という望みがあるからです。
イエス様が言われました。
マタイ22:37
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。自分を愛するよ。」これです。
人間が最も間違っているのは、利害関係で動く人です。自分に特になるか。有利になるか。そういう損得で動く人は、悪魔悪霊どもがささやきます。それのほうが楽だぞ。上手くいくぞ。お金に不自由しないぞ。とささやきます。
愛するみなさん。
1、みなさんは、聖霊の油注ぎを受けたいですね。
2、聖霊様の力を帯びたいですね。
3、悪魔悪霊どもの攻撃を打ち破る力をいただきいですね。
その力は、「聖霊の臨在の中には力があります。」その臨在を自らが感じ取る、感性を言いましょうか。感受性といいましょうか、いろいろ表現がありますが、神の臨在の中にいますと、もう自分の力などまったくない、自分はただ主に従うしかないと、そういうことが分かります。
私は、聖霊様を知ったのは、もう20年くらい前でしょうか。大川従道先生がアルゼンチンからお帰りになってから、月に一回ミラクル聖会があり、友人から誘いを受けて行きました。メッセージがあったあと、電気を暗くして、一人一人に先生が手をおいて祈って下さる。すると不思議にも後ろに倒れるのです。私の場合は、最初から倒れて、何かに引っ張られるような感じといいましょうか。上手い言葉が出てきませんが、そうなる。私にとっては、理解という範囲を超えた出来事でした。不思議と言いましょうか。その時に、日比谷公会堂でクラウディオ・フレーソンというアルゼンチンから、神様の器が来日して聖会があるということを知りました。今だからそう言えますが、その当時は、聖霊様の存在も知りません。ですから、偵察に行くことにしました。1995年だったと思います。当時私はひげを生やしていました。玄関をはいったら、賛美の時で、みなが手を上げているのです。それから、祈りましょう。とアナウンスされてみな祈り始めました。聞いたことがない言葉で、私の席を囲んでいる皆さんが、私の知らない言葉で祈りはじめました。気持悪く感じました。次に牧師は講壇に上がって下さいと云うアナウンスがありまして、どうしようかと一瞬考えたのですが、せっかく来たのだからと思い、講壇のそばに行きましたら、すると、かかりの牧師から、あなたは「幕屋」ではありませんかと言われて、私のほうが「幕屋とはなんですかと聞きたいほどでしたが、違いますと答えて」講壇の上に上がりましたが、一番後ろで待っていました。すると牧師たちが順番に倒れていきました。少々驚いて、逃げること出来ず、私は倒れないと頑張りました。私の順番になって、私は倒れないと気張っていましたが、パンチの祈りで倒れてしまったのです。
教会に戻って、京子先生がどうだったと聞かれて、「これはあぶない」と言いました。明くる日が聖日礼拝でしたので、いつも通りメッセージをしますと、「聖霊様は」と自分が言っているのです。うるさい!と言って、また、「聖霊様と云う」のです。聖霊が何だと。礼拝が終わり、聖書を確かめました。するとどうでしょう、どこにも聖霊という言葉があるあるある。私はまったく教えられていませんから知りませんでした。私はびっくりしました。聖霊様の理解が入ると御言葉は本当に心にはいり、聖書が分かる。その体験をして、ようやく聖書の真実が分かってきました。特に使徒の働きには聖霊様の力を受けて、宣教の働きに出て行く。こういうわけで、私は聖霊様に出会ったのです。
突然に私は変えられました。私の人生は180度変えられたのです。聖霊様が私の内側におられることを知ったのです。
「聖霊様の臨在の中には力があります。」「無限大の霊的力があります。」これは確信をもって云うことが出来ます。1回聖霊様とお会いすると、聖霊様の人格は、暖かい、純粋で、圧倒される。力そのもの。いやし主、悪霊を追い出す。しるしと不思議と奇跡。超自然的力。
私はこの力が欲しいと思いました。それには払らなければならない『代価』というものがあって、その「代価」を払うなら、必ず、聖霊様の力がやってくることが分かりました。
使徒の働き4:13
13、彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また無学な普通の人であるのを知って驚いたたが、2人がイエスと共にいたのだということが分かった。
『イエス共にいる』と書かれてありますね。これが「鍵」です。「イエス様と共にいると云う代価」です。「毎日の生活の中で、イエス様が心の外にいかないようにすることです。毎日、信仰を働かせていることです。これが「代価」です。これこそ「代価」です。喜びの代価です。常に御言葉に接し、祈りをするという『代価』です。
聖日は礼拝に出席します。
御言葉を開いてメッセージを聞きます。
献金をします。
賛美をして、主を誉めたたえます。
御言葉を読み伝えます。
1週間聖日礼拝を待ちます。わくわくして待ちます。
御言葉の中にいたいです。
『十一献金を』捧げます。
感謝献金をささげます。
礼拝を守ること。捧げること。これ代価です。
もう飢え渇いて、餓え渇いて礼拝に臨みます。
イエス様と顔と顔を合わしたい。もう飢え渇きます。牧師は飢え渇いています。徹底的に飢え渇いています。
アメリカのスミストンという人口500人の町があって、地図には書かれていない。そんな小さな町に、リバイバルが起きました。その教会の牧師はスティーブ・グレイ先生です。先生は教会の中で、さまざまないやなことがありました。
もう、牧師を辞めるという思いを持っていました。奥様がペンサコーラにリバイバルが起きているから行ってみて、それから次を考えてと言われて、先生は車を走らせました。人生のどん底の渦中に立たされていました。先生の心は疲れ果てていました。打ちのめされ、回復不可能の中にいました。ブランズ・ビル教会へ着いて、数日経って、神様の声がありました。「私はあなたにリバイバルを与えたいんです。」次の日も同じ言葉がありました。説教も出来なくなり、祈ることも出来なくなった自分にどうしてリバイバルなどが訪れるのかと思っていると、再び、あの声が聞こえました。「私はあなたにリバイバルを与えたいのです。先生が教会に帰り、礼拝堂に入ったとたん、突然、驚くべき激しさで、電流のような聖霊の力が先生を打ちました。先生は雷に打たれるように感じました。両腕画に上がり、ぐりぐると回りながら、上下に高く飛び跳ねはじめた。
スミストン・リバイバルにはじまりです。
聖霊様が圧倒的に臨んで、教会は目覚めました。
先生は私たちに語ります。「リバイバルはイエス様だけを求め、ほかのものは何にも求めない。「私は世のものはいりません。イエス様、あなただけが欲しいのです。あなたのために使われなかた時間はすべて浪費です。私の人生にあなたの臨在が戻ってくるためには、何でも行います。」
「初めに渇きありき」があるのです。「すべての源はイエス様です」。川は天から自然に流れてくるわけではありません。必要なのは、『聖霊の傾注の初めに『渇き』があるかです。問題は水不足ではなく、「渇きの不足です。」
私は、求め続けています。しかし、教会が上手くいかない。イエス様~~。イエス様~~。私はイエス様、あなたとお会いしたいです。顔と顔を合わせたいで~す。只、願っています。私は、何十年もリバイバルを求めてきました。聖霊様の臨在の中に長くいつもいたいのです。この臨在があふれることを、求めて必死です。
「神様はどんなお方ですかと知識で知っても」「それは知識の信仰ではありません。」「知識は人生を生きるために本当に大切で、必要です。それが、信仰と合わせ持つならば、きっと素晴らしい主のご愛を体験するでしょう。」
旧約聖書の時代、イスラエルの民は聖書をもっていたわけではありません。
どの人もほぼ例外なく「神殿」で祭司が読む言葉を聞いて、神様が現実に神様どのようにして現実に臨在の中にいたか。そうではない時代がありました。分かることは、イスラエルの民がエジプトで奴隷として苦役を受けていた時代に聖書はありませんでした。40年間の長きに渡って、マナを水を与えられ着物も靴もすり切れず、40年間守られました。
神様は、昼は雲が民の上を覆い日照りから守り、夜は日の柱をもって、寒くないように守って下さいました。これが臨在です。臨在の中に40年間毎日いることが赦されました。雲が火が、アバ父の姿でありました。アバ父は、その雲と火で民を守りながら民の姿を見ていました。
申命記8:4
4、この40年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
すごい御言葉です。
40年間着物も靴も足も何でもなかったのです。
信じがたいことです。
主の奇跡がその40年間、続いたのです。
これは40年間のリバイバルです。
私は、この御言葉に圧倒されます。
神様の超自然的力が常に働いていました。
臨在が常に覆っていたのです。
Ⅱコリント3:17~18
17、主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
18、私たちにみな、顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映ささながら、栄光から栄光へと、主と同じ形に姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
非常に分かりやすく言いますと、顔の姿が変わる。顔が栄光に満ちる。ああ、あなたは変わりましたね~と、そういう意味になります。
純粋にイエス様と歩み、イエス様と共に歩む。こういう表現が適切でしょうか。
私の顔が変わるのではなく、変えられる。栄光から栄光へ変えられる。
マルコ16:17~18
17、信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、私の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、病人に手をおけば癒されます。
新しい言葉とは『異言』です。「異言」が聖霊様の油を受ける秘訣です。
Ⅰコリント14:3
3、異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは
誰も聞いていないのに、御霊によって奥義を話すのです。
私たちは心はいつも「平安」でありたいのです。
「平和、平安」とはヘブル語で「シャローム」と言います。シャロームとはイスラエルの挨拶です。朝に昼に夜に。です。おはようございます。こんにちは、こんばんわ。です。そういう言葉がなされるのですが、シャロームは、の『満ち満ちる』『聖霊で満ち満ちる』という意味です。
平和とは何でしょうか。「世がいくら騒々しくても、私の心は神様の中で、聖霊で満ち満ちています。」「平安です」「平和です」ということです。
私たちは「異言の祈り」を求めたいと思います。「知識の言葉=日本語」はもちろん必要ですが、異言の祈りは神様との直行便です
異言は異言の解き明かしの賜物がある人がいない限り、人には理解出来ません。異言は聖霊のバプテスマです。みなさんは、水のバプテスマを頂きました。次は聖霊のバプテスマを頂きたのです。聖霊様が語られます。神様、は異言を解き明かす器も用意されています。私は一人しか知りません。異言で祈ると悪魔悪霊どもは混乱します。自分の思いや考えで祈りませんから、悪魔悪霊どもは攻撃しようがなくなるんです。
アルゼンチンに、カルロス・アナコンディア先生という伝道者がおられます。アルゼンチンの国を180度変える働きをしています。私も11月にアルゼンチンに行き、先生お会いします。先生はねじ工場の社長でしたが、先生の心はお金はあるけれど、心は空しい、何かが欠けている、それが欲しいという思いがありましたが、分からないのです。土曜になると別荘に行きました。それでも満たされることはなく、おいしいものも食べました。しかし、かえって沈んでいきました。そのような中で、パナマの出身の伝道者の聖会に出て、救われました。それから家族は祈っていました。すると、突然、天から聖霊様が稲妻のようにやってきました。雷のような、電流のようなものが落ちてきて聖霊のバプテスマを受けました。その時、奥様とお子さんは聖霊様に打たれたのですが、は先生には落ちてきませんでした。先生は主よ。どうして聖霊のバプテスマを下さらないのですか。と私は餓え渇いています。そう叫んだ瞬間、聖霊様が稲妻のように先生に臨み、24時間異言を語り、賛美されました。
1982年の初め頃、神様は再び先生家族に再び聖霊様が稲妻のようにやって来ました。その時に、長男が『アルコンティニア』という言葉を繰り返し語りだしました。奥様には「異言の解き明かし」の賜物が与えられていました。その言葉の意味は『主は言われます。もう間もなくこの国に人知では計りしれない出来事が起こり、アルゼンチンは私のものとなるでしょう。カルロス、あなたが今立ち上がるのです。アルゼンチン、そしてアメリカ全土にあなたの声を聞くでしょう。非常に多くの人々が、あなたの声を聞くことになるでしょう。立ち上がって私の証をしなさい。』こうして、アルゼンチン・リバイバルの器が起こされました。それからの先生はまっすぐに主の働き人となりました。
人間が注意することがあります。これが悪霊の仕業で、攻撃です。人間は罪をもっています。私たちの「人格」攻撃します。また「堕落」させようとして破壊するのです。「傲慢」「利己主義」「自己中心」「情欲」「怒り」「嫉妬」「邪悪な判断力」「中傷」「告発」「うわさ話し」「苦々しい思い」「短気」「赦さない心」「虚栄」「プライド」「拒絶」「裏切り」「憎悪」「自己正当化」「恐れ」「失意落胆」
これらは悪霊の仕業、攻撃です。
神様は、私たちの体全体が、霊を受け入れる器として造られました。
心を通して、私たちの心が清ければ、心は喜びます。喜びの霊が流れていきます。喜びの霊が流れなければ、人々にも喜びが伝わっていきます。心を謙遜にして、神様の前でへりくだりの心を持つことを、人々の心は慰めを受けます。励ましを受け取ることが出来ます。
口を通して、私たちは人に仕え、感謝する言葉を口から出します。あらゆる事柄に感謝の心を傾けます。人々が私の口から語られる言葉に感動出来るように。私の口はイエス様を語ります。
目と耳を通して、私たちの目は良いことに向けます。耳もおなじように人をさげすむ言葉や行為を見たり、聞いたりすることを拒否します。私たちは、イエス様のようになりたいのです。目も耳も御言葉を語り、耳を傾けます。
手を通して、私の手は病んだ人に柔らかく握る手です。心を砕いて病める方の痛みに触れます。私の手はそのため手です。
思いを通して、私の思いは神様を一番に思います。そうすれば、人々に良き業が可能になります。人の心を傷つける言葉使った時に、いつでも謝り、悔い改めることが出来るように。思いこそ大切なことはありません。
感情を通して、私たちの感情が、傲慢になったり、情欲で満ちたり、人々を中傷して喜こぶ感情を退けます。私の感情がいつも安定していますように。
健康を通して、霊的にも肉体も健康でありたいと願います。健康は神様の御心ですから。
心が喜び、思いが豊かになり、感情が優しくなり、口から否定的な言葉を消え去り、心が平安になりますように。
私たちはこの聖霊様に従い、聖霊様のもとで主の働きを持ちたいですね
問題が襲って来ても大丈夫です。
心配な心を押し寄せても大丈夫です。
不安が来ても大丈夫です。
イエス様が共におられます。
これが新しい皮袋です。
新しい皮袋には、新しい葡萄酒が必要です。葡萄酒入れるために作られています。葡萄酒は発酵しますから、常に新しい皮袋に入れておかなければなりません。
イエス様と共に生きる。ここに、私たちが歩む道筋を大切にしていきましょう。
祈ります。
愛する父なる神様。今日も健康が保たれて礼拝に出席出来たことを感謝いたします。今日も御言葉を味わい、御言葉で生きる力の源がイエス・キリストにあることを学びました。私たちは小さな者ですが、主がすべてを計画し、すべてをなせるようにしてくださることを堅く信じています。この地上の命が天の命らること。天の御国が地に降りたことを、天の御国が地に侵入した時から、私の命は主のものであることが分かりました。私の心が心を通して、口を通して、思いを通して喜びが、感謝があふれ、感動する思いがもっともっと大きくなりますように願います。この地上は悪魔悪霊どもが支配していることを知っています。私が主に従う思いが来た時に、聖霊様に従うことを、決して悪魔悪霊どもに明け渡すことがないように、知恵を与えてください。神の知恵はすべてを包み、愛が私の内側から湧き上がってくるように、切に祈ります。今日の礼拝が来週の礼拝まで霊的維持が出来ますようにお願いいたします。
この祈りを主・イエス・キリストの御名によって祝福し祈ります。 アーメン