ダイヤモンドを磨く者

 

 

社会はますます混迷を深め、人と人との関わりは砂を噛むような、そして、人を信ずることに、どこかちゅうちょし、信頼しきれない思いを私たちはしばしばもつことがあります。あるいは、癒しきれない心の痛みや傷を負ってしまうこともあります。私たちは、人生の意味を喪失してしまうほどに人との関わりに不信感をいだいてしまうことが少なからず、誰もが体験していることだろうと思うのです。

私は人との関わりを語り続けてきた一人ですが、つきつめて、もっと明確に言うならば、人格と人格との関わりにおいて成り立つ人間関係です。私は牧師ですから、神の人格と私の人格の関係も含まれています。口先の言葉を使い分けて人との関わりを上手に生きる人もいます。人間はしょせんそんなものだと言う人もいます。人間はそんなきれいではないよと考える人もいるでしょう。

本音と立て前、確かに人間である限り、100%良い関係を保ったと言い切れる人はいません。憎しみ、裏切り、ねたみ、高慢、悪意を体験していない人は決していないでしょう。そして人間は、その都度、その都度悲しんだり、涙したりします。

 言葉の重要さを考えて生きることを自分の生き方の中心に置かなければ、私たちの人生そのものが歪み、悲惨になっていきます。私は言葉が実に重いものであるのかを知らされて生きてきました。

 人を傷つける言葉は、まず自分自身が傷付き、同時に、相手が傷付き、また同時にその言葉と状況を見た人が傷付きます。それ程に言葉は両刃の刃です。人を優しく包みこむことも出来ますし、反対もあります。

 いじめの問題は今に始まったことではありません。ただそれが今日、非常に陰険になり、「命を断って」しまうまでに追い込まれていく少年少女たちがあとを立ちません。今の時代はまさしく病んでいます。悲しくも病んでいます。人間の人間らしさを回復されなければなりません。

私たちが創造主なる神に信頼するならば、人は即一瞬変えられますが、人が即一瞬のうちに回復するということは非常に難しいと思います。人間は変化し続けながら回復していきます。いじめの問題は今に始まったことではありません。

いじめをする子どもたちは家庭環境からも影響されるでしょう。それゆえに、私たち親がどれだけ言葉の重さを自覚し、自分の生き方から語る言葉を発すなら、子どもに説得力を持って伝わるでしょう。子ども勇気を与え、人生の歩み方を親から学ぶならば、いじめる子は激減するに違いありません。子どもが親を尊敬する対象となるように親の存在意義が増すでしょう。

 子を見れば親が分かる、親を見れば子が分かるという言葉があります。自分の子どもの健全な成長を願わない親はいないでしょう。全ての人の人格の成長には近道はありません。人格の成長は成熟の成長です。

 子どもは安物、偽りの装飾品ではありません。時間をかけずに簡単に造れるものではありません。子どもはダイヤモンドの原石のようなものです。完成されるためには多くの行程と時間を必要とします。私たち大人は、子どもたちの心の中にあるダイヤモンドの原石を磨く者でありたいと願います。 2016年7月22日    石川愛人