2016年4月10日 礼拝メッセージ
人間は霊的存在です。 創世記 3:1~7
神様が初めに人間アダムを創造しました。
この人間の創造には順番がありました。
創世記2:7
7、その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻に命の息を吹き込まれました。
この話しをする時は、少しだけベニー・ヒン牧師の言葉を少し借りるのですが、
第一に、「形造った」それだけではただの人形のようなものでした。
神様はここで「完全な人間」を創造しました。
重要なことは、人間が生きるには、血液がなければなりません。
土をこねている段階です。生きるために必要な内蔵、肺、全ての機能をその時点で造られたと思います。
その形は、神様に似せて造られました。
第二番目、アダムの鼻に命の息を吹き込みました。それで生きる者になった。
この時点で、人間は『神様から息』を吹き込まれました。
「息」とは「霊」です。
神様の息は、神様の霊を現しています。
ここまでは分かりますね。
聖書は幾つもありますが、欽定訳聖書があります。
欽定訳聖書では、「生きる者になった。」を。
「人は“たましい”となった。」と訳されています。
人が体と霊を与えられた後に、人にたましいを吹き込まれました。
そこで、一人の個人=たましい、が形造られました。
神様は、「霊、体、たましいを異なった機能を与え、完全な人間となりました。」
アダムは完全な人間でした。
そして、神様はアダムに「女性」を与えました。
2:18、21、22
18、その後、神である主は仰せられた。「人はひとりでいるのは良くない。私は彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。
21、そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
22、こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
霊と肉体とたましいの機能は全て違います。この三つが結ばれて、人間です。
霊はどういう働きをもつのでしょうか。
間違いなく、神様との交わりです。
どの様に交わるのでしょうか。
御言葉を読むこと。
祈ること。
教会での交わり。
牧師との学び。
ですから、霊は神様を意識します。
ここまでいいですか。
“体は霊を入れる入れ物です”
霊的意味は「入れ物」です。
地球上の歴史の中で生きた全ての人間は同じです。
ここまで良いですか。
次に、“たましい”です。
「たましい」は」「生きる者になった」と同じ意味ですね。
と云うことは、霊の働きでもなく、入れ物でもないですね。
人間は考えること、赦すこと、喜ぶこと、感謝すること、たくさんありますが、それらはみな、感情、知性、意志です。だれで持っもています。ない人は一人としていません。
これらは、別のことばで現すと、自分の中から出ていきますから、「自分を意識します。」
ここまでいいですか。
人間はこの三つが一緒でないと、生きているということはあり得ません。
しかし、アダムとエバが罪を犯したことで、人間は罪ある者になってしまいました。
このことは、どの人にも霊が存在しているのですが、「霊の部分が閉じられた」と云うことです。
そこで、アバ父は、人間を救うために、人類の救済計画が動き出しました。そのために父なる神様は、人間が罪を犯して霊を閉ざされましたから、“閉ざされた霊を開くことが必要です”イエス・キリスト様は、この人間の罪を赦すために、天から地上に遣わされ、十字架上で人間の罪を一心に負い、死なれました。これによって、信じる者は罪赦される存在になるのです。
繰り返します。
イエス様が来られた理由がここにあります。そのために「イエス様は、私の罪を赦すため十字架にお掛になり、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そして、復活して、死から勝利しました。
イエス様を信じる者が罪赦された者です。
クリスチャンの特権中の特権です。
クリスチャンだけが「天国」行きです。
ですから伝道します。
今日話したいことは2点です。
第一に、創造主なる神様は、人間を造られた前に、人間が生きる環境を全て用意されました。人間が生きる条件である全ての部分をお造になりました。
第二、人間は霊とたましいを人間の中にお造りになりました。それは、一つの無駄がなく、欠けのない者としてお造りになりました。完全でした。
完全はなくなりましたが、神様は御国を天から地へ下ろしてくだいました。
アバ父、おとうさんがおいでです。
イエス・キリスト様がおいでです。
聖霊様がおられます。
私たちはみな弱い者です。
私は強いと云う人はうそつきですよ。
パウロは自らに病気を持っていました。その病は自らを誇らないためだった。キリストの恵みなのだと告白しています。
Ⅱコリント12:9~10
9、しかし、主は、「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのゆえに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
10、ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。何故なら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。
アーメン
ここでパウロの言葉は、どこで感じているのでしょうか。
まず、“肉体の病=とげは「体」です。”
次に、“自らの弱さを告白しています。「たましい」です”
そして、“この弱さを受け入れるのは「霊」です”
パウロはこの三つをここで語っています。
この地上で生きることがどんなに大変でも、イエス様を見上げます。
謙遜に誠実になって「神様の愛」を伝えます。
神様の愛をどのようにして分かってもらえるのだろうか。と問い続け、実践するのです。
それでも、生きることは大変ですよ。
「私が謙遜に誠実に神様に愛」と言っても、苦しい時に簡単に謙遜や誠実な姿勢を保つことは大変ですよ。
どうですか。私はそうですよ。
大変なのです。
正直に申し上げます。大変です。
しかし、“大変さを喜びます”信仰が必要です。
みなさんにお願いがあります。
御言葉を読みましょう。
祈りましょう。
祈るのです。
京子先生の祈りの場は車の中だと言っています。聞きましたね。
神様に祈ります。
私は小さな者です。しかし、私はイエス様の中で生かされていることを感謝して情熱的な人生を歩みたいと思います。そういう姿勢を保つには、助けが必要です。主は、私に多くの素晴らしい器を備えてくださっています。世界の器たちです。そして、何よりも、京子先生です。
その生きる姿を見て、人々が、あなたは、“あの人はどこかが違うと思う”
京子先生がいつも言いますね。それです。
大川従道先生と牧師がおられます。大和カルバリーチャペルの主任牧師です。
みなさんも知っていますね。
先生が説教の中でこんな話しをされて感動しました。
アメリカの葬儀は土葬です。
カルフォル二アのホレスホームという墓地に行ったことがあります。広い、広い山が墓地になっていました。その墓に前には十字架が立てられています。
その十字架の前に、小さな花が幾つも添えられていて、不思議な思いが込み上げてきました。何か、“山全体が霊で覆われているようでした”
棺をロープに結わえて、そっと降ろして、土をかけて花を添えるのがアメリカの普通の葬儀ですが、ポール・ウォーカー牧師の息子さんが交通事故で亡くなりました。それも酔っ払いと云う一人の存在によって死んだそうです。自分の子どもが死ぬということぐらい辛いことはないと思います。土の中に棺を降ろされていった時に、周りには多くの方々がおいででした。みな悲しみ、心痛めていました。そうした時、ポール・オーカー牧師の奥様が先生に「あなたみんな悲しんでいるけれど、賛美しませんか。」と言ったそうです。そうしたら先生は「何を言っているのだ。自分の子どもが死んだ時に歌を歌えるか。そんな気持ちになれないよ。」と、とりつぎませんでしたが、しばらくするとまた「あなた、賛美しましょうよ」と“彼女は小さな声で歌いはじめました”奥様が歌うので、先生も歌わざるをえなくなって歌い始めました。「神様はすばらしい」と云う賛美です。“すると知らぬ間に、みなが賛美をはじめました”この一番辛い時に、そこにいた多くの人たちが「主はすばらしい」と、主を賛美する心が与えられて、賛美がはじまりました。墓地はそれまで、地獄のようなさびしさと痛みの中にありましたが、賛美と感謝と主を誉めたたえる霊で満ちたそうです。
これが天の御国が地上に侵入して来たという現れだと思います。
「天国」ですよ。
「天国の前味」ですよ。
主は素晴らしい
主は素晴らしい
主は素晴らしい
私の主。
この賛美は私も大好きなのですが、この曲がそのようなエピソードあったことを初めて知りました。私は、このエピソードに感激しました。
“どこで感激しましたか。「たましい」です”
“どこで賛美をしましたか。「霊」です”
“体はそこにいました”
イエス様が復活されて、弟子たちの前に現れました。
イエス様は「平安があなたがたにあるように」「聖霊を受けなさい。」「誰の罪も赦しなさい。」と言われました。
ヨハネ20:21、22
21、イエスはもう一度彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。」
父が私を遣わしたように、私もあなたがたを遣わします。
22、そして。こう言われると、「彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい」
23、あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのまま残すなら、それはそのままです。
イエス様は「聖霊を受けなさい“
“あなたがたが誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたが誰かの罪をそのままに残すなら、それはそのままです”
みなさん
赦し合うことがいかに重要なことかが、語られています。
あなたの心の中に、許すことが出来ない人がいるならば、今、許してください。
罪をそのまま残すならば、それはそのままです。
私たちは、そのままで天国へ行くのではありません。
そのままではありません。
イエス様は、私の罪を帳消しにしてくださいました。
私がカナダ・トロント・エアポート・クリスチャン・フェロシップ教会に行った時に、私は講壇に立って韓国人を苦しめた罪を許してくださいと、語り、ひれ伏しました。その時に、通訳の韓国人が泣き崩れました。
許さない罪を許してください。
すると一人の韓国人が講壇に上がって来て、私のおじいさんは天皇に向かって礼をすることを拒んで、軍人に殺されました。私はこれを忘れることが出来ませんでした。私は日本人を憎んでいました。いま気が付きました。私は許します。と言われて、5千人の会衆の前で私を抱きしめて、許してくださいと言われました。そして、教会の中に拍手が起こり、ジョン・アーノット牧師が会衆に、“いま許していないことがあったら許しを請いましょう”と呼びかけました。“聖霊様がもうすごい力のご臨在が溢れました”
「霊とたましいと体が一体になったのです。」
これが人間の本来立ち帰る中心です。
ヨハネ19:28~30
28、この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために「私は渇く」と言われた。
29、そこには酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、それをイエスの口もとに差し出した。
30、イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
イエス様は、聖書が成就するために、「私は渇く」と言われました。
イエス様は、私のあなたの罪を赦すために、天の御国から遣わされました。
イエス様が十字架で殺したのは、律法学者、パリサイ人、ピラトが介在しました。しかし、それだけではなく神様は、“聖書が成就するために殺す”という行動を取りました。
イザヤ書53:5、6、10
5、しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの懲らしめが私たちの平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6、私たちはみな羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を、
彼に負わせた。
10、しかし、彼を砕いて、痛めることは、
主の御心であった。
もし彼が、自分のいのちを
罪過のためにいけにえにするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができ、
主の御心は彼によって成し遂げられる。
愛するみなさん
私たちは、赦されたのですから、許し合うのです。心に感じるすべての方たちを思い浮かべてみてください。
あなたは、様々人生を歩んで来ました。みなさんの人生は簡単なものではなかったと思います。それぞれの立場で、イエス様が私の、あなたの罪のために死んでくださったのです。
“許すことは、イエス様があなたの心の中に入ってくださって出来るみわざです”イエス・キリスト様の十字架でした。このことの告白が「人間のたましい、霊が、体が統一された証拠なのです。
イエス様は最後にご自分の体を痛めつけられました。
「イエス様の体は、痛んで、苦しんで、見るかげもない姿でした。
「私は渇く、完了した。」と云う言葉は「たましい」からです。
そして、「霊をお渡しになった。」ここが、まさに「霊」です。
理屈では分かりません。信仰が分からせてくれます。なぜですか、「イエス様を知らないと、「霊の部分」が分からないからです。
牧師は、私に関わる全ての人々を許しました。思い出したならすぐに手紙を書きます。謝罪します。それでも、思い出せない部分があることは分かっています。
どうか知ってください。分かってください。理屈ではどうにもならない部分があります。
どの人にも、神様は霊を入れてくださっています。霊の扉を開くのは、その人です。
アダムの罪によって、霊の扉は塞がれましたが、神様はどの人にも関係なく備えてくださっています。その扉を開くならば、救われます。
この救いの恵みは、天国へ向かう切符です。
許す人生は平安です。
この平安を持ち続けましょう。
祈ります。
愛する父なる神様、今日再び、教会であなたを誉めたたえることが出来たことを感謝致します。この一週間、あなたを見上げて歩みましたが、どこかで人を傷付けたことがあると思います。イエス様の御名によって許してください。主がパウロ先生に、私の恵みは、あなたに十分です。私の力は、弱い時に完全に現れると言われました。私はあなたに心を開きます。どうぞ、私の人生の歩みが、主に喜ばれる歩みでありますように。主が共にいなければ、私は不安になります。常に主が伴っていてくださいますから、生きれます。このことを感謝いたします。どうか毎日、感謝があふれますように、今週も主にある歩みでありますように、平安が毎日ありますように、喜びが毎日ありますように、感謝が毎日ありますように、寛容さを誠実さを忘れないように祈ります。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祝福して祈ります。 アーメン