2016年2月14日 礼拝メッセージ
罪から方向転換する マルコ12:31
霊的礼拝をするために必要な基礎は、イエス様が語られた二つの戒めです。
第一、『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神である主を愛すること。
第二、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。」
今週は、第二の戒めです。
ここでイエス様が言われたことは、第一番目と二番目は一番目よりも優れている、と云うのではありません。
この二つは同時に働いて一つであるということをイエス様は言われています。不可分の関係。両者を離れることが出来ない関係です
神様を愛さなければ、人を愛することは出来ません。
人を愛さなければ、神様を愛することも出来ません。
これが真理です。
私たちは、真理の中にいることが、神様の愛の生きる源です。ここを分からないと、世の中にある「愛」にだまされて、結局、分かったようで、何も分かっていないことになります。
『罪からの方向転換』、『クリスチャンとして生きる大方向転換』をしなければなりません。
クリスチャンの生き方とは、御言葉の中に自らを置くと云うことです。そういうことを意識しないと、いつの間にか、世の価値の中を相変わらず生きていることに気付かず、悪魔悪霊どもに、まんまとだまされるのです。
今日は、このことを話したいと思います。
ヨハネ書簡は「愛の書簡」です。
これからまずすることは、ヨハネ書簡を読みます。
これから、Ⅰヨハネの全体の御言葉を読んでいきます。
Ⅰヨハネ1:1
1、初めにあったもの、私たちが聞いたもの、目が見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、命の言葉について、
2、この命が現れ、私たちはそれを見たので、その証しをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御子とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。
7、しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
8、もし、罪がないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
9、もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
10.もし、罪を犯していないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神は御言葉は私たちのうちにありません。
2:2
2、この方こそ、私たちの罪のための、― 私たちの罪だけでなく全世界のための、― なだめのそなえ物なのです。
3、もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることが分かります。
4、神を知っていると言っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
5、しかし、御言葉を守っている者ならそのうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることが分かります。
6、神の留まっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。
15、世をも、世にあるものも、愛してはなりません。もし、誰でも世を愛しているなら、その人に御子を愛する愛はありません。
16、すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです
17、世の欲は滅び去ります。しかし、神の御心を行なう者は、いつまでも長らえます。
18、小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることが分かります。
22、偽り者とは、イエスがキリストではあることを否定する者ではなくて誰でしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。
3:6
6、誰でもキリストのうちに留まる者は、罪のうちに歩みません。罪のうちに歩む者は誰でも、キリストを見ていないし、知ってもいないのです。
8、罪のうちに歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔ははじめから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです。
9、誰でも神から生まれた者は、罪のうちに歩みません。何故なら、神の種がその人のうちに留まっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩みません。
14、私たちは、自分の死からいのちに移ったことを知っています。それは兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちの留まっているのです。
16、キリストは、私たちのために、ご自分の命をお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のために、命を捨てるべきです。
17、世の富みをもちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざす者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。
18、子どもたちよ。私たちは、言葉や口先だけで愛することをせず、行いと真実を持って愛そうでは有りませか。
23、神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。
4:7
7、愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っているのです。
8、愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。
10、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
12、今だかつて、誰も神を見た者はありません。もし私たちが愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちにまっとうされるのです。
18、愛には恐れがありません。全く愛は恐れを締め出します。
5:4
4、なせなら、神によって生まれた者はみな、世に勝っているからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5、世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。
19、私たちは神の者であり、全世界は悪の者に悪い者の支配下にあることを知っています。
21、子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。
アーメン
主イエス様は、天の御国から地に遣わされました。その目的は、歴史上で生きた全ての人々の罪を自らが十字架におかかりになり、赦しを与えると云う創造主の御心でした。この神の真理を信ずる者は『永遠の命』が与えられるということが、全ての全てなのです。
「永遠の命とは、イエス・キリスト様のことを指しています。」
「イエス・キリスト様ご自身が永遠のいのち」です。
ヨハネ10:27~30
27、私の羊は私の声を聞き分けます。また私は彼らを知っています。そして彼らは私についてきます。
28、私は彼らに永遠の命を与えます。彼らは決して滅びることはなく、また、誰も私の手から彼らを奪い取去るようなことはありません。
29、私は彼らをお与えになった父は、全てにまさって偉大です。誰も私の御手から彼らを奪い去ることは出来ません。
30、私と父は一つです。
「ですから、イエス・キリスト様を信じる者は、同時に永遠の命があるということ。」
神は愛である。これが聖書の根本です。
もし、神様はどういうお方ですかと聞かれたなら、『神は愛です。』と答えてください。
次に聖書は罪について強く指摘します。
ローマ6:11~14
11、このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
12、ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
13、また、あなたがたの手足を不義の器として、そして罪を捧げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にゆだねなさい。
Ⅰコリント6:9~10
9、あなたがたは、正しくない者は神の国を相続することは出来ないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男娼となる者、
10、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神に国を相続することが出来ません。
みなさん良く知ってください。
イエス様が30才の時に、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けてから、公生涯を歩みました。
マタイ3:1~3
1、そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて言った。
2、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3、この人は預言者イザヤによって
「荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、
主の通られる道をまっすぐにせよ。
と言われたその人である。
マタイ4:17
17、この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
イエス様は言うのです。
悔い改めなさい!!
この悔い改めとは、只、自分の罪に対して悪かったと思うことだけではありません。
「罪から方向転換すること」だと言うことです。
私の人生は神様のものです。
イエス様が十字架上で死なれたことによって、私たちは「生きる者」に変えられました。このことは、「自分は死んだ」ことを意味します。
そうですね。みなさんはある時に教会に導かれ、イエス・キリスト様を知り、自らの罪を自覚し、罪の告白をしました。ここでバプテスマを受け、クリスチャンとされました。素晴らしい人生が開始されました。毎日がイエス様ですね。
人間として最高の神様からのプレゼントを頂きました。
ここで知っておかなければならないことがあります。あなたが、クリスチャンになったから、罪は犯さないということではありませんよ。
罪は、相変わらずおかすのです。
神さまは、イエス様を信じ、神の御国の中に入れられた者です。
あなた自身が神の御国なのです。神の神殿です。
神の御国ですよ。神殿ですよ。
この御国を神殿を、罪で汚すわけにはいきません。
ですから、悔い改めがあるのです。
悔い改めの土台の立つ者だけが、神の恵みの中を歩くのです。
マタイ:12:31、32
31、だから、私はあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。
32、また、人の子に逆らうことを言う言葉を口にする者でも赦されます。sじかし、聖霊に逆らうことを言う者は、誰であっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。
冒涜とは、ののしりと訳すことも出来ます。
聖霊様は、敏感なお方です。繊細な心をお持ちなお方です。イエス様は、人の子に逆らうことを言う言葉を口にする者でも、十字架にお掛かりになって全ての人々の罪の贖いをされましたから、誰でも赦されるのです。しかし、聖霊様に対すると、アバ父に遣わされた。聖霊様は清く、汚れのない、全てにおいて完全。
愛するみなさん。
聖霊様来てくださいと祈り、お招きします。すると必ず来てくださいます。
聖霊様が来てくださると、何が起こるのでしょうか。『ご臨在』です。
アメリカのある教会に、礼拝になると、一人の婦人が座ってとりなしの祈りをするのです。礼拝中に、牧師先生に油を注いでください。この礼拝を祝福してください。礼拝堂の椅子に座るのではなく、その夫人は講壇のそばに座って祈るのです。教会は繁栄していました。しかし、牧師が赴任しました。新しい牧師はその方がうるさいと感じたのです。ちゃんと席に座っていればそう思われなかったと思うのですが、席ではありませんでした。新しい牧師はその夫人をそこから離れるように言って、締め出したのです。その瞬間、聖霊様のご臨在が消えました。すると教会に来ていた方々が来なくなりました。教会は教会として機能しなくなったのです。この夫人が座っていたところが、「天が開かれた通路だった」のです。「聖霊様は、瞬時に消えるのです。ヒュンと消えます。」聖霊様の臨在が失われた時に、すべての祝福が消えます。私は一回この経験があるので、良く分かります。その時、ひれ伏して深く、深く悔い改めました。私は愚かでした。聖霊様、来てくださいと、聖霊様!お願いです!と祈りました。
昨日祈っていた時に、聖霊様が特別に強いご臨在をくださいました。今日の礼拝は、聖霊様の臨在がとても強いです。賛美の中で腕は震えて、今も体中が震えています。
教会に聖霊様が消えた礼拝は惨めなものだと私は分かりますから、みなさんの、祈りに対して、感謝することはあっても、否定することは決してしません。大事な教会の約束事としています。形式がどうのという世界で生きてはいけないのです。礼拝の形式はありません。私は、メッセージが終わると、一人一人の祝福や癒しの祈りを始めますね。講壇を離れて、みなさんの頭に手を置いて、病んでいる部分に手を置いて、京子先生と祈ります。形式を考えたならば、何かおかしい感じがあるかもしれませんが、聖霊様が指示されたならば、すぐに従います。ここが大切なことであることをみなさんはもう分かりますね。
今日、みなさんに買ってほしい小冊子が届きました。スティーブンス・栄子先生がお書きなった。2冊の小冊子の「神の栄光・シャカイナグローリー」と「荒野の幕屋に中に見るイエス様」この2冊です。今まで聞いたことがない素晴らしいメッセージです。こんなに分かり安い本を見たことがありません。たった300円ですよ。申しわけない思いがします。クリスチャンだけではなく、もうすべての人々に読んでほしいです。真面目で、柔軟な心がある人ならば、一遍でイエス様を受け入れてくださると、私はどきどきしながら、興奮しています。
栄子先生が来てくださることになりましたなら、伝道集会を持ちたいと思っています。「ミラクル集会・心の癒しのために」もう決めています。沢山のチラシを印刷して地域の方々に知らせたと思います。
3月は、金 宙完先生が来られますが、私の教会はお招きしません。不思議に来てくださるのです。先生とは長い間私の先生として助けて頂きました。特に私が病気の問屋のような状態の時代に、先生から按手の祈りをして頂きました。何か、私を特別扱いにしてくださるがごとく大切にしてくださいました。また、先生が「ハーベスト神学校・日本校」を開かれて学長でした。金先生が、京子入学金を二人で10万円にしてくださいました。私は牧師の人生を歩んでいる中です決めていることがあります。主任牧師が学校に行って学ぶならば、主任牧師夫人は教会を守るという関係は持っていません。常に牧師同士、同じ歩みを共にすることは重要だと思っているからです。同じ地平にいなければ教会は上手くいきません。私たちはチームです。私たちは二人で一人前です。どのような時も一緒です。一緒が出来ない時がありますが、さびしいですよ。
金 宙完先生は、いやしのみわざを日本で広げていかれました。癌の方がいやされ、難病の方がいやされ、癌の副作用で髪が全部無くなった女性がいました。先生は頭を見せてと、みなの前でしたが、神の毛がうっすらと出てきていました。今はふさふさで、その写真を見ました。耳が聞こえない方が聞けるようになりました。
多くのいやしのみわざを私たちは見てきました。
ここで、分かってほしいことがあります。
いやしを祈る時に、金先生が祈るからいやしが起こるのではありません。賛美して、神様と向かい合った人がいやしを受け取ります。
神と向かい合い、「幼子」のようにならないと、救いといやしを受け取ることが出来ます。聖霊様は賛美を喜ばれます。私たちの心を神を見上げて、強く求めるのです。癌の方が強くいやされたと思わない人はいないでしょう。上手くいったらと思って癒しの祈りを受けることなど有りえないでしょう。難病の方が必死になって癒しの祈りを受けるということは当たり前ですよ。祈って頂いて、その時に聖霊様の臨在がありますから、後ろに倒れることもあります。倒れることが重要ではありません。人間が現象にとらわれがちですが、先生が手を触れなくても、いやさる方はおられるのです。聖霊様が、直接触れてくださるからです。神様の愛と信仰が深められることが重要なのです。
人は過ちを犯す時があります。いやしの集会を批判する方々がいることは十分に知っています。必要なのは、いやされたという強い思いです。その強い思いは、神様と出会う中で成就されます。「幼子」のようにとイエス様は言われました。心か真実を持って、神様と向かいあわなければいやしは起こりません。
但し、聖霊様はあなた以上にあなたを知っていますよ。あなたが忘れたことも知っているのです。あなたがイエス・キリスト様があなたの罪のために身代わりとまって死んでくださった。イエス様は3日後に墓からよみがえられました。
それ故に、イエス様を信じるなら、あなたは救われます。
3月のミラクル集会を楽しみにしています。
アーメンですか。
最後に驚くべきニュースをお聞かせします。
京子先生が訪問治療をしていますが、筋ジストロヒーの患者さんがおられます。
彼女はまだ若い頃から体のだるさを感じておられたそうですが、20数年、家にエホバの証人が来ていたそうです。20才を越えて結婚されました。それでもだるさや力が出ないので、病院に行かれて、筋ジストロヒーであることが判明したそうです。20年以上、エホバの証人はお母さんの所に来て教えるそうですが、彼女はそれを脇で聞いていました。京子先生と出会い、「聖書を少しずつ語る内容がエホバの語る内容とまるで違うことに気が付いたのです。彼女の心に、「この方は何かが違う」エホバが言っていることと違う、そして心を開いて、京子先生は主人は牧師で、あなたのことも祈っていますよ。と伝えて、車で外出した時に外をを見ると、あ!ここに教会がある!あ!あそこにも教会がある。私も普通の教会に行ってみたい。そこで神様を信じたいと思うようになりました。
京子先生はいつも言っていますね。「あの人は何かが違うと思われる歩みをしましょうと。」
これこそが証しです。
拍手をしましょう。栄光は主のものです。
ハレルヤ!です。ハレルヤ!です。
みなさん。お願いです。
クリスチャンとして、あの人は何かを持っている、何かが違うと思わるために、祈り、御言葉を読んでください。あなたは、イエス様から買い取られた者です。口で言う時に、相手がそう思うような信仰を身に着けましょう。
京子先生は聖霊様から愛されていますから、こういうことが起こります。みなさんも同じです。京子先生は長い間クリスチャンで、牧師でもあるから、京子先生だから出来ると、自分と比較にもならないと思ってはいけません。
クリスチャンに成り立ての方のほうが、新鮮なのだということ心の中に留めておいてください。
みなさんがそういう証の生活をすると、教会はみなさんの家族もいつか来るようになります。みなさんの家族は教会を知らないから、いろいろ言うでしょう。
奥様が世の中で沢山の悲しい出来事がある。神様がいるならば、どうしてこんなことが起こるのか。私は神を信じない。と言われたと言っている方がいましたね。
来週、悪魔悪霊どもの動きについて語ります。
みなさんが、一つずつ身近なことを、どう解釈したら良いのか。説教の中で語ります。
『学ぶことは行うことと同じです。』
ヨハネ1:1
1、初めに言葉あった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。
2、この方は神とともにおられた。
3、全てのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずに出来たものは一つもない。
4、この方に命があった。この命は人の光りであった。
言葉とはイエス・キリストのことです。
イエス様が、十字架刑に処する許可を与えたのは、ポンテオ・ピラトです。
イエス様を自分の部屋に入れて、「真理とは何かと質問します。真理が分からなかったからです。
「真理とは神の御国」です。
「真理とは、少しも偽りがない、純粋できよいものです。
「真理を知るとは、一生涯を捧げることです。」
8、私には罪がないと言うならば自分をあざむいており、真理は私たちのうちにはありません。
罪とは、『的外れ』に生きること」
神を神としないこと、これが罪。
神さまの愛は、アガペーの愛です。
自分の姿に正直であるようになりましょう。
イエス様は、あなたを今も見ておられます。
あなたは、新生した者です。
あなたは罪、赦された者です。
あなたは神様から愛されており、あなたは神様を愛しています。
これが真実です。
ですから、人に対して誠実の謙遜に、寛容を持ち、愛を伝えていく者として、」霊的階段を登っていきましょう。のなることをひた向きに求めます。
祈ります。
愛する父なる神様、あなたに御名を誉めたたえます。あなたは誉めたたえるべきお方です。今日は、この1週間にあった一つ一つの恵みがありました。そのお証しを聞けたことを感謝いたします。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。の御言葉を実践して聞くことが出来ますように。マイナスは必ずプラスに変わります。辛い困難が試練が襲ってきましても、あなたは、すべてを益に変えてくださることを信じます。今週も、イエス様の十字架を覚えながら、それぞれの働きの上に祝福があります。どうぞ主よ。私たちの教会がもっともっと大きくなりますように。教会の今年のスローガンである「奇跡の教会になる」そういう教会として前進していきます。使徒の時代にあった、しるしと不思議と奇跡」が現されことを信じます。このホームページを見られたみなさまの上に、神様の豊かな恵みがありますように。この祈りを主イエス・キリストのみ御名によって祝福して祈ります。
アーメン