2016年1月31日 礼拝メッセージ
一人のたましいに心を傾ける ルカ10:25~37
牧師の説教は常に人生の生き方に焦点が置かれています。
信仰は、私たちの人生に反映される者になりますように祈る者です。
聖書を解説するのではありません。
創造主なる神様の御心を知り、人生を追及するために御言葉に聞くのです。
大切で重要なことは、主イエス様を信じ、主イエス様の中に生きることを通して、あなたの人生が変えられることです。
御言葉の内容が少しでも理解出来たならば、御言葉を実践していかなければなりません。
知ることは、行うことと同じです。
どのように人生を変えるか。
牧師の焦点はいつもここにあります。
人生を変えられることは、神様の愛がなければ変わることはありません。
私の人生を変化させていくのは神様です。
神様の愛があって、その愛によって、が変えてくださるのは聖霊様です。
パウロは愛がなければ、うるさいシンバルのようだと語りました。
今日は、良きサマリヤ人のたとえを通して御言葉を伝えます。
ルカ10章25~37節
25、すると、ある律法専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることが出来るでしょうか。」
26、イエスが言われた。「律法には何と書いいますか。
27、すると彼は答えて言った。『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また、『あなたの隣人をあなたの自身のように愛せよ。』とあります。
28、イエスは言われた。「その通りです。それを実行してしなさい。そうすれば、いのちを得ます。
29、しかし彼は、自分の正しさを示そうとして、イエスに言った。「では私の隣人とは誰のことですか。」
まずここまでにします。
律法学者がイエス様を試みるために質問をしました。
イエス様の歩みは、こうした人々から試み続けていました。マタイ4章では悪魔からも試みを受けました。
私たちの人生で、試みに会わない人生はありません。
サタンはいつもあなたに照準を合わしています。
誰でもない、あなたです。
あなたの人生を、神なき人生に誘いも込むことをするのがサタンの目的だからです。
サタンは、「試みる者」「誘惑者」「告発者」「敵対者」だからです。
『霊的武装』をしましょう。
牧師は第一キリスト教会の聖会で預言を頂きました。
聖会が終わり帰ろうとした時にことです。
預言者が突然、私を止めて預言を語っていただきました。
ですので、テープに収めことが出来ませんでした。
思い出しながらですが、
あなたが辛い時、私に求めなさい。
あなたが荒野の中で一人ぽっちにいるような状況にあっても、私を求めなさい。
私は、あなたに一人の人を遣わす。
私は、あなたに山を動かす力を与える。
私は、あなたに病人を癒す力を与える。
悪霊を追い出す力を与える
私の中に留まり、私に頼りなさい。
私に委ねるなら、私は、あなたに大いなる奇跡の人生を与える。
こんな内容でした。
本文にはいります。
律法学者がイエス様に、先生、何をしたら、『永遠の命を受け取ることができますか。』
という質問をしました。
イエス様は最も重要なこととして、モーセが神様から与えられた十戒のを一つも取り上げませんでした。
十戒ならば、律法学者は知り尽くすほど、知り尽くしています。
しかし、イエス様の答えはそうではありませんでした。
『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。』
同じように。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と云う内容でした。
『ここでイエス様は、愛の御国が築き上げるために生きるのですよ。』と語りました。
『愛の本質』がここで語られています。
30~37節を読みます。
30、イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにして逃げて行った。
31、たまたま、祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32、同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33、ところが、あるサマリヤ人が、その旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35、次の日、かれはデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱して上げてください。もっと費用がかかったら、私に帰りに払います。
36、この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。
37、かれは言った。「その人に憐みをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
アーメン
第一番目に半死半生に会った同胞のユダヤ人か倒れている姿を見た人物は祭司でした。
祭司は、イスラエルではレビ部族の者が祭司になることが出来ました。
祭司は幕屋でいけにえを捧げ、契約の律法を教えるのが祭司の働きであり仕事でした。この時代の中で非常に権威ある立場にあった方です。
幕屋に置かれている契約の箱は幕屋の至聖所にありました。この至聖所に入る唯一の部族長が祭司でした。
その至聖所に神様が天から火となって下り、住まう場所です。
祭司は、その重要な神の働き人です。
祭司は神様のことを教えていました。
祭司の心は、『倒れた同胞であるユダヤ人』を見て何を感じたのでしょうか。
何も感じなかったのです。彼は、道の反対側に行って、彼を見たのですが、見ないつもりになって行ってしまいました。
これはどういうことでしょうか。
信じられないことがここに起きています。
率先して、人を助けることを実践して、信仰の証しをすべき立場にいた立場にいた存在ですが、この祭司は、見て見ないふりをするという、とんでも行動をとりました。
彼は、シナゴーグで何を語っていたのでしょう。
少なくても、モーセの十戒を語っていたはずです。
この祭司の心は冷え切っています。
石の心のようです。
彼の心は、倒れている人に心を傾けることはありませんでした。
そこに二人目の人物が現れました。
レビ人です。
彼も同じように、神に仕え、多くの人々に御言葉を教える立場にありした。
しかし、彼も逃げるように行ってしまいました。
最後に彼の前に通ったのは、サマリヤ人でした。
彼は、心からかわいそうに思ったのです。
自分はこの人を助けなければいけない。
彼の心に憐みの思いが湧き上がったのでした。
彼は、サマリヤ人を抱えて、介抱してロバに乗せて、その晩、彼はどのように彼の傷を介抱したのでしょうか。
彼の着物はぎ取られていたのですから、自分の着物は余分にあったのでしょうか。旅の途中でしたから、あるいは、着替えの着物があったかも知れません。あるいは宿屋の主人にお願いして、衣類を分けてもらったのかも知れません。お金はどのくらい持っていたのでしょうか。きっと多くは持っていなかったのだと思えます。あるいは持っていたかも知れません。危険な山道をですから、自分も強盗に襲われるかも知れません。彼は、半死半生の状態ですから、並み大抵な看病ではなかったことは容易に想像出来ます。
そして、明くる日宿屋の主人に頼んで、この方を介抱して上げてください。
私は、必ず帰って来ますから、かかった費用はその時にお払いしますから、よろしくお願いします。と言って出かけました。
強盗に襲われたのは「ユダヤ人」で、助けたのが「サマリヤ人」でした。
この時代、サマリヤ人とユダヤ人は、話すことも嫌う、仲が悪い関係だったのです。
サマリヤとユダヤはお互いに神殿を持っていて、自分のほうが正しく、彼らは間違っていると主張し合っていました。
当然、サマリヤ人がユダヤ人を助けることなど、考えることも出来ない。
そういう「民族の宗教対決」の様相を持っていました。
そのような関係の中で、サマリヤ人はそういうものと一切関係なく、心を尽くしたのです。
イエス様がたとえ話しを律法学者に話しました。
そこには、深い意味が込められています。
『一人のたましいに心を注ぐ』『愛とは何か』というという『霊的深み』を語ったのです。
サマリヤ人の姿を見ると、彼には利害が見えません。
ただ、この一人のために尽くしているのです。
イエス様はここで、「この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と逆に質問をします。
律法学者は答えます。「その人に憐みをかけてやった人です。」と答えました。
律法学者は、「サマリヤ人と云う言葉を使いませんでした。」サマリヤ人と云う言葉さえも口にすることを嫌ったことをが、ここにも透けて見えます。
するとイエス様は「あなたも行って同じようにしなさい。」と言われました。
愛するみなさん
人間関係で一番見にくいのは、利害関係で動く人です。
自分に特になるか。
自分に有利に働くか。
自分にとって都合が良いか。
そういう心を持っている人は、ひと目で分かります。
損得で動く人間は汚いです。
そういう心は一切捨てることです。
クリスチャンは損と思えることもあえて選ぶ人生を歩む人です。
間違いなく損だと思えることに心を注ぐのです。
こういう人生を歩むことに心から喜ぶのです。
こういう人生を歩むことは神様を信じる特権に預かっていると思い、
喜んで、感謝をして人々のために心を尽くし、仕える人生は素晴らしいことです。
このサマリヤ人はその模範です。
パウロはこう語りました。
ピリピ3:7~8
7、しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8、それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
みなさんは、神様の愛の中に生きる人生を選ばれました。
神様の愛がなければ人生は空しいことを良く知っていると思います。
只、神様に喜ばれる歩みをしましょう。
イエス様は、律法学者に答えられました。
「あなたも行って同じようにしなさい。」
今日、この御言葉を聞いている、みなさんに、イエス様は語っています。
「あなたも行って同じようにしなさい。」
神様を愛し、人々を愛し、愛される関係を築くことは生きている者にとって、本当に必要なことです。
霊の世界に生きる私たちにとりましては、当たり前なことです。
これが私たちの生き方です。
アーメンですか。
この良きサマリヤ人のたとえで、イエス様が言っていることは、最も大切なことは『一人のたましいに心を傾ける、注ぐ』ということです。
『一人のたましいに心を傾けることなくして、神様愛は語れない。』ということです。
あなたにとって「一人のたましい」とは誰でしょうか。
妻ですか、子どもですか。
それで良いのです。
家族を大切にしてください。
家族をないがしろにした信仰はありません。
家族を大事にしてください。
イエス様を愛する人生は、家族を救います。
パウロが言いました。
主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたの家族も救われます。という御言葉を思い出しましたか。使徒16:31
イエス様は私たち、あなたの家族を愛しておられます。
神の御国で最も最優先されることは、あなたが、『神様と親しく交わり、神様の中にいることです。』
御言葉を聞く時、知識として受け取るのではなく、人生を生きる中で、周りの者が、あなたを見て、『あの人は何かが違う』と思われる『霊的な人生の歩み』を見せることです。それが証しです。
私たちの教会の2016年のビジョンは、『しるしと不思議と奇跡の教会になる』
ビル・ジョンソン師が、1月8、9日の聖会の時に、「預言の霊を解き放て」という本が出版されました。その中でこういう言葉がありました。
『良い行いとは何を意味するのでしょうか。イエスの教えを割り引いて、人間的なレベルで引下げるのは簡単なことです。貧しい人を助け、裸の者に着る物を与え、困っている人を訪ねることを大切にする一方で、(クリスチャン生活にはこれらの慈善活動が不可欠です。)霊的奉仕を通して彼らの内なる必要を満たすことを拒んでいないでしょうか。この『良い行い』という言葉は、パウロが語っている『いるしと不思議と奇跡を現していているのです。』
ハレルヤですね。
私たちはこのことを求め、実践して来ました。
本当に嬉しかったですよ。
私たちの人生は、神様の計画の中で動いていることを信仰をもって確信してください。
私たちは、神様の栄光を現すために、私の全てを捧げる人になることが、人生を素晴らしくする秘訣です。
人生は自分のものではありません。
私たちは。イエス様に買い取られた者です。買い取られたとは、私の命も含めて、みな主のものです。主の栄光を現すために生きるならば、主は、何倍にもして祝福して下さいます。
Ⅰコリント6:19、20
19、あなたがたのからだは、あなたがたの内に住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知っているのです。
20、あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。
主の買い取られた者には、『主の使命』が授けられます。
使命に生きることは、大変のように思えますが、『使命に生きると、私たちは生き生きとします。』
使命は自分を捧げることです。
使命の内容は、イエスさまのようになることです。
人生のゴールは、イエス様の似姿になっていくことです。
きっと一生かかっても、なお目標としていくことでしょう。
牧師と京子先生は、困難の多い人生をあえて選び、歩んで来ました。
祝福は、そういう歩みから来ることを知っていたからです。
感謝な人生を送ることが出来な~と、思いますよ。
牧師と京子先生は、これからが最高の人生はこれからだと思っています。
人間は自分の限界を超え、絶望した時、主よ助けて~、どうしたらよいのですか~と呼び求める時、主の栄光が現れます。
霊的世界が、自分の目の前に現れます。
聖霊様が来られます。
喜びのない人生は、どんな人生なのでしょうか。
祈りのない人生は、どんな人生なのでしょうか。
感謝がない人生は、どんな人生なのでしょうか。
Ⅰコリント4:16~18
16、いつも喜んでいなさい。
17、絶えず祈りなさい。
18、すべてのことを感謝しなさい。
御言葉はこのように書かれています。
イエス様が歩む道は、常に群衆が押し寄せていて、少しでもイエス様のそばに行こうとしていました。人々は飢え渇いていました。
この時代、イスラエルはローマの支配下にありました。自由が制限されてい、ました。監視された生活をしていました。
ですから、イエス様の前に来た人々は、飢え渇いていたのです。
愛するみなさん
良く知ってください。
すべての始まりには『渇き』から始まるのです。
リバイバルを求めるのならば、もう、渇いて、渇いて、イエス様~。この清水に聖霊の火をくだして下さい!
この偶像の国、日本に救いを成してくだい!
リバイバルの火を下してください!
霊的渇きを失うと、枯れてしまいます。
聖霊様は渇く人のところ雨を降らせます。
ホセア書5:3
3、私たちは知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光りのように、確かに現れ。
大雨のように、私たちのところに来
後の雨のように、地を潤される。
良きサマリヤ人に戻ります。
彼は、誠実な人でした。
勇気ある人でした。
自分を先にしませんでした。
聖霊様は、このような人に臨みます
神様の愛とは、自分を顧みないで、他者のために生きることです。
心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知力を尽くて主を愛するならば、人間は自然にこのような行動を取るのです。
報いを求めてはいけません。
報いを計算したら、とんでもありません。
計算したならば、愚か者です。
私たちは、霊の人です。
アーメン
霊的人を生選ぶならば、油が注がれます。
主が求めておられるのは、肉の思いを捨てて、聖霊様によって生きることです。
聖霊様によって生き、聞く人生は安定した人生を獲得します。
簡単なことでは崩れません。
霊的歩みを追及してください。
霊的世界を見えるように、祈り求めてください。
ガラテヤ6:8、~10
8自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠の命を刈り取るのです。
9、善を行なうのに飽きてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ことになります。
10、ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。
パウロは、イエス様の声を聞くことによって、人生がひっくり返り、主のために生きる決心をし、使命に生きることを選びました。
『霊的人生とは、『自分に死ぬことです』
良きサマリヤ人の姿はイエス・キリスト様のことです。
イエス様こそ、痛みと犠牲をの伴わない愛はないことを教えています。天の御国で持っておられた全ての栄光を捨てて、私たちと同じ姿となり、最後は、十字架の上で死をもって罪の代価を支払ってくださいました。そのイエス様が、私たちに、「あなたも行って同じようにしなさい。」と語られました。実践し、主の祝福の世界を見せて頂きましょう。
今週も主を愛し、人を愛する人生を歩んでまいりましょう。
祈ります。
愛する父なる神様、あなたを誉めたたえます。
今日は、良きサマリヤ人のたとえを通して、主イエス様の歩む姿をみさせて頂くことが出来て感謝を申し上げます。私は小さな者ですが、与えらえた信仰の中で、私の生涯の生き方になりますように、聖霊様助けてください。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」主のご命令ですから、受け取ります。いつも祈り、喜び、感謝する毎日でありますように導いてください。
礼拝に臨むことが出来た幸い感謝し、主イエスキリストの御名によって祝福し祈ります。 アーメン