2016320日  礼拝メッセージ

  暗闇の中のイエス様   マルコ153334

 

今日はイエス様の十字架上で死んだことを覚える日、受難週です。

 

 

マルコ153334

33、さて、12時になったとき、全地が暗くなって午後3時まで続いた。

34、そして、3時に、イエスは大声で、「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」とう意味である。

 

この時天が動いた!父なる神が動いた!

天の雲も、太陽も、全ての被造物、自然界が神の指示の中で服従した!

全地は真っ暗になった!

暗闇になったのだ!

 

この暗闇は何だったのか。

今日のメッセージは『この暗闇』に迫ります。

 

イエス様は、ゲッセマネの祈りの時にもカヤパの官邸ヘロデの官邸ピラトの官邸引きずられて行く時もピアドロローサの坂道を十字架を背負ってゴルゴダの丘に上って行く時も常に「アバ父、アバ父」「父よ、父よ。」と天の父を呼びながら苦しみに耐え、歩かれました。

 

どんなにムチ打たれても、嘲笑されても、殴られても、イエス様の心は父と共にいたのです。ですから耐えることが出来たのです。

神の子だから痛みせず、苦悶することはなかったと言う人がいることを知っていますが、イエス様は生身の人間だったと言わなければなりません。

 

父よ。あなたの定めに従う準備は整いました

 

父よ。あなたとご一緒です。

 

これがイエス様の心の内側です。

 

それが、この暗闇の3時間の間、イエス様は「父よ」と言えなくなったのです。

「わが神。わが神」と呼んでいます。

 

それは、全人類の罪に対する「神の怒り」が、今ここでイエス様の上に激しく下りイエス様が呪いとなり呪いそのものになって神に捨てられた3時間でありました。それは、まさに暗闇の時間でありました地獄の時間でありました。

 

人間の罪が赦されるということは、イエス様の「もだえ苦しむ叫び」の中で成就したわけです。今日、私たちの心の奥底にこのイエス様を置いてください。

 

この暗闇の中でのイエス様のうめき、苦しみのゆえに      「救い」があり、『永遠の命』があるのだということを知ってください。

 

ですから、この3時間の間、神はイエス様を、怒り、呪い、ご自身の顔をイエスから背を向けたのです。を十字架の贖いはこの暗闇の凄まじい中に隠されていたのです。

 

目に見えるイエス様は血を流し、体力を使い果たし、見る陰もない姿になり、心ある人々は真正面から見られない、そういう姿です。

 

しかし、十字架を語る者は、この暗闇こそ、最もイエス様が苦しんだ時であったことを語らなければなりません。

 

「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ。」

マタイでは、「エリ・エリ・ラマ・サバクタニ。」

 

エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」はイエス様が実際に語っていた「アラム語」で、

エリ・エリ・ラマ・サバクタニ。」はヘブル語です。

 

新約聖書はギリシャ語ですから、その意味は「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。

 

私の神よ。私の父よ。何故、あなたは私を見捨すてたのですか。

 

その声は「大きな声であった。全身をしぼり出す。そいう叫びであった。」

と記されています。

 

神さまから見捨てられた瞬間であります。

 

イエス様の生涯でたった一回だけ「神を父よ。と呼ぶことが許されなかった時があった。」それが、暗闇の中で「神の呪いが下った時」でした。

 

ヨハネ434

34、イエスは彼らに言われた。「私を遣わした方の御心を行い、そのみわざを成し遂げることが、私の食物です。

 

 新改訳聖書は、ここの文章の「主語」がはっきりしていません。この御言葉の主語は「私の食物」です。

ですから、私の食物とは、私を遣わした方の御心を行い、そのみわざを成し遂げることです。

になりますが、分かりにくいですね。

 

 

牧師は、ここでしばらく聖霊様、ここの「食物」の意味を教えてくださいと瞑想しました。インスピレーションがきましたよ。[食べることは生きるか死ぬかでるわけです。食べることが出来て肉体が維持されます。食べることは生きる基本です。食物が断たれたら、死にます。そうですね。

 

 

食べ物は、「生きること。」

私が生きることは、私を遣わしてくださったお方の御心を行い、そのみわざを成し遂げることです。

 

「イエス様の食物とは、父の御心を成し遂げることだ。」と言われました。

 

この4章は、イエス様が生きる最初の時点のことが書かれてあります。

イエス様は、この4章の時点で、自ら歩む目的、すなわち、十字架を意識して、自分はそこへ行くのだということをすでに言われています。

 

「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」

「エリ・アリ、ラマ、サバクタニ」

 

わが神よ~~。何故、どうして、これまでした私を見捨てるのですか。

 

イエス様は、ゲッセマネの祈りで、私の杯を取り除けてください。と苦悶の祈りをしました。

 

マルコ1434

34、そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。「イエスは深く

恐れもだえはじめられた。」

35、そして、彼らに言われた。「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目を覚ましていなさい。

36、それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように祈り、

37、またこうも言われた。「アバ父よ。あなたにお出来にならないことはありません。どうぞ、この杯を私から取り除けてください。しかし、私の願うことではなく、あなたの御心のままを、なさってください。」

 

マタイ:2637

37、その時、イエスは彼に言われた。「私は悲しみのあまりし死ぬほどです。ここを離れないで、私と一緒に目をさましていなさい。

 

悲しみのあまり死ぬほどだ。

 

「苦悩」と「苦悶」とどれだけの差があるのでしょうか。

苦悩は ⇒ 苦しみ悩むこと。 

苦悶は ⇒ 苦しむもだえること。とありました。 広辞苑です。

 

イエス様が最後に向かう道は「苦しみもだえる」そう云う姿が浮かび上がってきます。

 

宇宙万物を創造されたそのず~と以前から、全ての初めからご一緒だった父から、見捨てられることが、どれ程のことであるのか、人間には及ばない世界であります。

 

この時のイエスさまの肉体は、衰弱の極限でありました。

33才のイエス様の肉体は弱り切り、痛むと呼吸も定まらない、そういう中で神に見捨てられたのです。

イエス様の心は頼るところを失い、孤高の中でうめき苦しんでいました。

 

エリ、エリ、ラマ、サバクタニ、~~

 

人々は、暗闇の中で、イエス様の叫び声だけがこだまのように反響して、

何を言っているのか、分かるはずもない。

 

第三の天に行った、パウロが語ります。

 

ガラテヤ313

13、キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちの律法の呪いから贖い出してくださいました。何故なら、「木にかけられる者はすべての呪われるものである。」と書いてあるからである。

 

アーメン

 

イエス様は何故それまでに苦しまれたのでしょうか。

 

人間の罪です。

 

人間は、アダム以来、罪を犯し続けて来ました。

人間の歴史は「罪の歴史」でもありました。

 

人間は罪を犯さないで生きることが出来ない存在となり、

その結果、死ぬ者となりました。

 

神様は正義なる神です。

公平な神です。

 

神様は罪を絶対に赦さないお方です。

 

しかし、人間はそれを知らない。

罪の結果、裁きがあることを知らない。

 

神様は、ご自身に似せて人間をお造りになりました。

神様の人格を与えられました。

これが神の愛です。

 

愛するみなさん

 

神様はみなさんを愛しておられます。

同時に裁きをなさるお方でもあります。

 

祝福を与えたいと願っておられますが、裁きもまたあるのです

 

罪が問われます。

では罪とは何ですか。 

神に背を向けることです。

創造主である神を礼拝しないで、自己本位に自己中心に生きることです。

自己本位、自己中心が偶像です。

 

神様とともに生きることが中心なのですが、神を神としないで生きているのが人間です。偶像に手を合わせ、悪魔悪霊どもの罠の中に身を置いている人間がそこにあります。石が神になり、自然が神となり、あらゆるものが神になる。880万の神が日本にはあります。

 

 クリスチャンを自称しているけれども、その実、クリスチャンとは到底思えない生き方をしているクリスチャンもいます。

 

良く知っておかなければなりません。

 

 

自分勝手に生きる者は、いつか裁かれます。

 

ですから、「従順」という言葉があるのです。

従順」が「信仰の基礎」です。

 

バプテスマのヨハネは大きな声で叫びました。

 

悔い改めよ!神の国は近づいた!

 

人間は、神さまを信じ、受け入れ、自分の罪を知り、悔い改めることが出来るようにお造りになりました。

 

神様の裁きは、人間を打ち砕いて、めちゃくちゃにするのではありません。

悔い改めて、立ち返るために裁きを行なうのです。

 

何故ですか。すでにイエス様が代価を払ってくださったからです。

 

悔い改めは、立ち直るチャンスです。

 

誰でも、神に立ち返ることは、生きている間に出来ることです。

 

牧師もその例外ではありません。

このようなことを語るのですから、自分を常に直視していなければなりません。

 

牧師は何回、悔い改めたのでしょうか。

数えることが出来ません。

以前私は、人に不遜な態度をしていたことに深く気づき、何通もの手紙を書きました。

その方々は忘れていたかも知れません。それでも、手紙を書きました。

 

京子先生は幼い時代から結婚するまでの間、平塚福音教会に行っていました。京子先生とは私が大学2年の時に出会いを与えられたのですが、私は誤った神学を身に着けていました。その福音教会の牧師は、岩井 清先生でした。誤った神学を教会の方々に文書を書いて、信徒のみなさんに渡していました。先生は怒りました。いま私の教会でそのような行為があるならば、断固として阻止していますね。ある日、その岩井先生から、一通の手紙が届きました。その手紙には、その時代岩井先生が私に対して怒ったことをお詫びしますという内容でした。

 

それ以来、私は先生の心を痛めてしまったことを悔いました

私は今、二人の子どもに思い出すと、メールで謝っています。もういいからと言いますが、聞き流してくれ、お父さんの歩みを整えるためだからと言います。

 

私は、数え切れない「傲慢」という誤りに陥りました。

 

愛するみなさん

神様は愛です。

 

それ以外の言葉はいりません。

 

ヨハネ94

4、私たちは、私を遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。

誰も働くことの出来ない夜が来ます。

 

私たちには「昼の間」にやらなければならないことがあります。

「昼の間に。それは生きている間です。」

 

イエス様がご再臨される前にです。

ですから、イエス様を知らない方々に永遠の命を紹介し、証しをし、伝道をします。

 

アーメン

 

神に立ち返るとは、永遠の命を生きることです。

ここからしか、イエス様の似姿に似て行く出発点はありません。

人格に近づく出発点です。

 

人間は、誰でも真の神を信じ受け入れ、永遠の命を得て、天国へ行くのです。

これ以外は地獄であると認めなければなりません。

 

私たちは誰もが、主に立ち返るように祈る者です。

神様は愛です。

 

私たちの教会は「初代教会に立ち返る」ことを目指しています。

それ以外には何もありません。

 

しるしと不思議と癒しがあり、預言があり、悪霊追い出しがあり、奇跡があり、使徒の働きの中に書かれてあることはあ、いまのそのまま生きています。

 

聖書に立ち返るならば、ここに行き着きます。

 

先程、大学時代、誤った神学に陥ったことを話しましたが、「神の死の神学」という本で教育されました。

みなさんびっくりでしょう。

私は、小学1年の時に牧師になりたいと思いましたが、まさか、私が「神の死の神学」におぼれるとは考えもしなかった。

 

イエスとキリスト。イエスはキリスト。

 

分かりますか。

簡単に言いますと。

イエス様はキリストである。救い主である。

一方、イエス様はキリストではない。

 

 

 牧師は、そういうとことを通されて今日がありますから、教会は何が必要であるのか。聖書をどう理解するのか。ということが私の牧師としてのテーマです。

 

 

その答えは「使徒に働きに戻ることです。使徒の働きは『聖霊行伝』です。

2000年前に弟子たちに下った。聖霊様がいまも生きています。神学ではなく、聖書通りに生きるということです。もちろん、初代教会に帰るということにも、神学があります。何故かといいますと、「境界線」が必要だからです。

神学は必要ですよ。キリスト教とどこで分離するのかを設定するからです。

 

ものみの塔とか、統一協会とか、また、もう数え消えないオカルト教。

異端であることを立証しなければなりません。

 

そういうものを撃破するのは聖霊様ですが、神学はこの時に必要です。

聖霊様が日本におりたち、リバイバルの火はもう来ています。

 

来週のミラクル集会は、この「聖霊行伝」を確かにするという、リバイバルをもたらす働きに一つです。これから、何回も何回も行われます。

 

 

ヨハネ1928

28、この後、イエスは、全ては完了したのを知って、聖書が成就するために「私は渇く」と言われた。

29、そこには酸いブドウ酒のいっぱい入った入れ物が置かれてあった。そこで、彼らは、酸いブドウ酒を含んだ海綿をヒソプを枝につけて、それをイエスの口元に差し出した。

30、イエスは、酸いブドウ酒を受けられると、『完了した。』と言われた。そして頭を垂れて、霊をお渡しになった。

 

「完了した」はギリシャ語で「テテレスタイ」で、この言語は「テレオー」で、「目的に達した。」「目的に到達した。」「達成した。」という意味です。

 

イエス様の生涯の目的は、あなたの罪を赦すためでありました。

全てを成し終えられると、「霊をお渡しになった。」のです。

息を引き取られた。

 

母マリヤは、自分が御使いガブリエルから受胎告知を受けてから、わが息子を育て、見つめ続けてきました。そして、この十字架の最初から最後の時まで、わが息子の姿を見ていました。わが息子の姿を一時も見逃すまいと後を追い続けてきました。イエス様が生まれる時に知らされた出生の秘密を知らされて、それが分かると、マリヤは自分の命をかけて引き受けたいと思ったに違いない。

 

マリヤはゴルゴダの丘に上り、十字架のイエスの足元に立って、どんな汚名を着せようと、死刑囚となって処刑されようとする姿を見ていても、

 

我が子よ

 

しかし、マリヤはここで泣き崩れない。

 

マリヤはこの日がいつか来ることが分かっていたに違いない。この日が必ず来ることを覚悟していたにちがいない。

 

3時間の暗闇は、母マリヤにイエス様の貌を見せないようにした、神のご配慮だったのかも知れない。

 

私たちは、神さまのご配慮の中で生かされています。

私たちは、生かされています。

自分の力で生きているのではありません。

 

感謝したいと思います。

 

祈ります

 

私たちを愛しでくださり、永遠の命を与えてくださっている主よ。ただ感謝します。私は、神様のご配慮の中で生かされていることをありがとございます。今日も、あなたの見前に出でて礼拝を捧げる特権に預かったことを感謝します。沢山の感謝があります。主に感謝を捧げる者は、常に悔い改める者であることを知っています。毎日ざっとうの中で生きていると、神経が疲れ果てます。しかし、そのゆえに教会があり、慰めがあり、励ましがあり、何よりも愛されていることを意識の中に入れる時に、頑張れます。主よ。これからの1週間の歩みの中で、主を信じ、主とともに歩める中で証し人として生きることが出来ますように守ってください。来週のミラクル集会に多くの方々が集められように、また、救われるたましいが起こされますように。祈ります。

この祈りを主イエスキリストの御名によって祝福し祈ります。  アーメン