2016828日  礼拝メッセージ

                            神様に明け渡す人生  ヨハネ211517

 

 

世界には沢山の神学校があります。日本も同じです。

そこで、ギリシャ語、ヘブル語、組織神学など沢山の科目を2年間、3年間、あるいは、4年間をかけて学びます。

 

私は3回神学校に行き学びました。

関東学院大学神学部、日本リバイバル同盟宣教研修所、ハーベスト神学大学大、で学び時を与えられたことは、一生涯の宝です。特に、ハーベスト神学大学は、家内とともに学びました。教会を持ちながらの学びでしたが、家内と一緒で、お互いに同じ目線で御言葉を学んだことは、それで分かったことは、私たちにとりましては、これ以上の喜びはありません。

 

「神学は私たちが生きる方法、人生の生き方を学びます。御言葉の意味の基礎を学びます。イエスさまが歩んだ道を学び、正しい道を歩んで行くために、御言葉を正しく読む力、洞察力で現実に生きる自分を、チェックするためにあります。」

 

「神学は、“正当と異端を断言する境界線の働き”をします。」

 

これが、私が得た最終的な結論でした。

 

 御言葉は、人が生きるすべての答えが隠されています。私たちが、御言葉を聞き、御言葉に生きるなら、あなたの人生は成功します。必ず。必ず成功します。御言葉を単純に読んで、単純に理解し、単純に生きること。“ああそうだった”と、“自分の生きてきた歩みを再発見します。”

 

 

私は、デイビット・テーラー聖会の委員をしています。1年もかけて準備します。

様々な意見が話し合うのですが、父なる神さま、子なるイエスさま、聖霊さま。がおられて、この時代の中で三者が私たちの目の前に表されることを知らされています。イエスさまが我々の前に現れる。それだけではなく、父なり神さまも現れる。私が今まで全く理解していなかったことが次々とデイビット先生のアメリカで起こっている。しかし、残念ながら、デイビット先生を異端だと決めつける教会が多いのです。

 

 

私は長い間、聖霊派の聖会と接してきました。

沢山の方々の病のいやし、悪霊追い出し、等を見て、体験してきました。

そういうことの中で、最大の奇跡は、イエス・キリストさまを自分の心の中に迎えいれることです。すべてはここに至らなければ、意味も価値もありません。

 

いやしの御業は聖霊派も福音派も、リベラル派の方々も差別なくも受けてよいのですが、受け入れない教派のほうが多いです。

 

もしも、自分があるいは家族の一人が、重い病を負っていたならば、「あなたの命は余命3か月と宣告」を受けたならば、人はどのように対応するのでしょうか。きっと、健全なクリスチャンであるならば、必死に、主の奇跡を求めると思います。病院に通っていても、入院していても、聖霊さまのいやしの力を求めて、主に懸命に祈るでしょう。私は癌になっていやしを受けている方々を知っています。教会はその病から解放されるために闘うでしょう。聖霊さまはいやし主だからです。

 

今年の5月にデイビット・テーラー聖会がありました。ある一人の癌の方が、いやしを受けました。病院へ行って、調べました。数値が正常になっていたそうです。患部にあった癌の大きな部分は小さくなって、いやされました。凄いことですね。一人の命が救われました。聖会でいやしを受けても。お金はかかりません。聖なる。聖なる。聖なるかな。と賛美しながら、いやしを受け取りたいですね。

なぜこのようなことを言えるのかと云うならば、私も、聖なる力によっていやしを何回も経験したからです。

聖霊さまは、超自然的な力によって、不思議、いやし、解放のみわざをなさいます。

 

私の所属する日本リバイバル連盟の牧師先生が癌になりました。先生は祈り、関わるすべての人々は祈ります。先生はいやされました。先生は祈りを感謝しながら、サプリメントを服用していたことを話されました。

 

また、奥山先生の奥様、篤先生も、癌からいやされました。聖霊さまをいやし主であることを確信することです。

ヤコブ:513~15

13、あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

14、あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい

15、信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

アーメン

 

 

韓国でのデイビット聖会では、1日に40人の髪の毛が薄い方々の髪が「ふさふさ」になったと云うことを先日知りました。また。次の日も40人が同じ恵に預かったそうです。

 

私たちは、チラシを作製することで、この出来事をどのように表現したらよいか、色々な意見が出てきました。このことははっきりと証ししようと、みなで考えました。そして「髪の薄い方がふさふさになった」と云う言葉になりました。

 

 

「奇跡とは」常識では考えられない超自然的な主が起こす出来事です。
いやしを通して、イエスさまを迎え入れる。このような出来事を通されて、神さまが与えて下さる祝福です。ですから感謝します。クリスチャンにされること、これが、いやしの聖会の根本的な主題です。

 

さて、今日の御言葉の背景から御言葉を読みましょう。

 

この御言葉の背景は、イエスさまが十字架刑で殺されてしまった。イエスさまは天に帰ってしまった。弟子たちは失望して、自分の故郷に帰り、ガリラヤに帰ってしまい、かつての仕事であった、漁師に戻ってしまった場面です。

 

弟子たちは、漁師に戻って、漁をしましたが、魚が取れなかったのです。

 

ヨハネ21313

3、シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちも一緒に行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も取れかった。

4、夜が明けそめた時、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることが分からなかった。

5、イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

6、イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば取れます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き揚げることが出来なかった。

7、そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは「主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

8、しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

9、こうして彼らが陸地に上がった時、そこで炭火とその上に乗せた魚とパンがあるのを見た。

10、イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今取った魚を幾匹か持ってきなさい。

11、シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地から引き上げた。それは153匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、、網は破れなかった。

12、イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、誰も「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかた。

13、イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

14、イエスが死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでに3度目である。

 

そして、今日の御言葉に移ります。

ヨハネ211517

15、彼らが食事を済ませた時、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、私を愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「は」。よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。イエスは彼に言われた。「私の子羊を飼いなさい。」

16、イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。」あなたは私を愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ、私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「私の羊を牧しなさい。」

17、イエスは3度ペテロに言われた。ヨハネの子シモン。あなたは私を愛しますか。」ペテロは言われたので、心を痛めて、イエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。イエスは彼に言われた。「私の羊を飼いなさい。」

 

 

12使徒のひとりであるペテロに、イエスさまが同じ質問を3度されました。ペテロはイエスさまに3度も同じことを聞いても理解出来なかったことで、イエスさまに自分を信じてくれないと思って、「心を痛めます。」しかし、ここでのやり取りは、イエスさまがペテロを信じ切っていないことを示すのではなく。二人の会話が通じ合っていなかったのです。「愛」英語や日本語にした場合、一つしか言葉がありません。「愛」「LOVE」です。しかし。言語のギリシャ語では、複数の単語が使い分けられています。

 

ここで、イエスさま「愛しますか。」と言った言葉は「神さまの愛、アガペー」です。

しかし、ペテロが答えた「愛する」は「フィレオー」の愛だったのです。

この言葉は、人間関係の愛です

 

イエスさまは、アガペーの愛で質問していますが。

ペテロは、フィレオーの愛で答えているのです。

 

イエスさまは、3度目の質問の時に、ペテロが答える、フィレオーの言葉を使いした。

 

つまり、同じ愛でも、“アガペー”と“フィレオー”とは

愛の本質が異なるのですが、ペテロはどうしても“アガペー”で答えることがどうしても出来かったのです。そこでイエスさまがペテロの側の語る言葉“フィレオー”で答えました。

 

そこで、聖書が使う“愛”という言葉を説明します。

 

1つ目は、“神の愛”です。見返りを求めない、犠牲的な神の愛です

 

ヨハネ316

16、神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

 

2つ目は“フィレオー”親子の愛、兄弟の愛、友情の関係を現す愛です。

すなわち、横の愛です。人格的な愛です。

 

3つ目は、“エロースの愛”です。

欲望的な愛、自己中心的な愛です。

 

ここで良く覚えてください。

ここで、イエスさまとペテロの問答が繰り広げられています。

この3つの「愛」を覚えてください。

 

1回目、 “アガペー”  → “フィレオー”

2回目  “アガペー”  → “フィレオー”

3回目  “フィレオー  →  ”フィレオー“

 

このように組み合わされています。ペテロが3回ともフィレオーで答えているのに対して、イエスさまは最初の2回は“アガペー”として質問し、3回目にはペテロが使った同じ愛“フィレオー”でしか答えることが出来なかった。

 

このことは、ペテロはイエスさまと3年半一緒に生活を共にしながら、イエスさまが行って来た数々奇跡、イエスさまが語ったすべての言葉を分かっていないことが分かります。

 

さて、ペテロは、イエスさまに同じことを言われて、理解出来ず、「心に痛み」を覚えたのです。別の訳分では「悲しくなった」。

 

イエスさまあなたと3年半もの間お供したではありませんか。何故同じことを言うのですか。

 

イエスさまは、ペテロに3回目で、ペテロが分かるフィレオーで語りました。

ペテロの心の中に降りて来て来られました。

 

私たちも同じです。イエスさまが心の中に降りて来られています。ですから、アガペーの愛を深くして、神さまの愛に近づくことが大切です。イエスさまは、ペテロに命じます。「羊を飼いなさい」と言われました。ここで「羊」は複数で書かれてありますので、「数々の羊」を飼いなさい。

 

 

イエスさまは、ヨハネ14で、助け主、すなわち「助け主」である「聖霊様」が来られる、私が、天に帰る前に弟子たちに言いました。

この約束が間もなく来ますよ。と語っています。

 

 

使徒141214

4、彼らと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないように。私から聞いた父の約束を待ちなさい。

 

そして、ペテロと弟子たち、また、イエスさまに従った120名の弟子たちに「エルサレム留まっていなさい」と言われます。その中にはイエスさまのお母さんも含まれています。

120人は、使徒の働き2章で書かれている、聖霊様の降臨まで待ちながら祈っていました。

 

12.そこで、オリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

13、彼らは町にはいると、泊まっている『屋上の間』に上った。この人々はペテロとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブ、と熱心党員シモンとヤコブの子ユダ、であった。

13、この人たちは、婦人たちや、イエスの母マリヤ、及び、イエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

 

 

さて。このペテロの姿は、私のあなたと同じだということを知っておかなければなりません。「聖霊さまがすべてのキーパーソンです。」

使徒2章で、120人が聖霊のバプテスマを受けます。

その瞬間、彼らは、まったく別人に変えられました。

人間の持つ、あらゆるものが、180度変えられました。

 

小さな、存在が、イエスさまと一緒にいながら、イエスさまが分からなかたペテロが、偉大な神の人に変えられました。

 

あのフィレオーしか語ることが出来なかったペテロの人生が、『神の愛、アガペーのことばを使う人物に変えられた。』そして、ペテロの言葉は、歴史の中で、御言葉となって人々に語っていくことになったのです。

 

神さまの愛を語る使徒として、地上で生きる最後までイエスさまに忠実な歩みをし、殉教していきました。

 

使徒2章では、ペテロの人生を根本から変わる、聖霊さまが降臨されました。

 

 

使徒3章には、ペテロとヨハネが宮で祈るために上って行った時、一人の生まれつき足がきかない男と出会いました。彼は、物乞いをしていたと書かれています。ペテロは、ヨハネと共に、その男に見つめて、

 

ペテロは語ります「私たちを見なさい。」

 

『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』と語たり、男の右手を取って立たせます。その瞬間に、男の足はいやされて、彼は、躍り上がったのです。

彼は、歩きながら神さまを賛美している光景を見た人々は、驚き、仰天したのです。』

 

このことが起きてから、多くの病人がペテロのもとに集まって来ました。そこでペテロは語ります。

 

使徒31215

12、ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。

「イスラエルの人たち。何故このことを驚いているのですか。何故、私たちが自分の力とか、信仰深さとかによって、彼を歩かせかのように、私たちを見つめているのですか。

13、アブラハム、イザク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光お与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前で、この方を拒みました。

14、その上、この聖い、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、

15、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

 

 

私たちの人生は、このペテロの言葉に尽きます。『私がやったのでない。聖霊さまが働いてくださったので、いまの自分があることを知っています。』

 

 

アルゼンチンのリバイバルを担っている、『カルロス・アナコンディア師』が次のように語ります。

 

 福音とは悪霊を追い払うだけのものではなく、病人をいやすだけではありません。悪霊からの解放が福音のすべてであるような錯覚をしないでださい。霊の戦いは福音の一部であることを覚えてください。ですから与えられているすべてのものを、聖霊の愛と配慮をもって用いなくてはなりません。
 
 悪霊からの解放は福音の一部ですから、私たちはこれだけを強調することは出来ません。献身のメッセージに片寄らずに伝えていかなけらばならないのです。神の愛を語る必要があります。献身を語る必要があります。完全な神に対する明け渡しを語る必要があります。聖霊の満たしを語る必要があります。また、病人をいやし、悪霊を追い出す必要があります。聖霊の満たしを語る必要があります。失われている魂のために断食し、とりなしの祈りをする必要があります。
  私は自分のクルセードでは、悪霊の対するミニストリーだけを取り上げることはありません。私は、まず第一に、イエス・キリストの福音を語ります。その後に、初めて悪霊を追い出すのです。なぜなら聖書のあらゆる箇所で、悪霊以外のものが見えないような歪んだ信仰を持ちたくはないからです。

 

 

愛する兄弟姉妹

良く聞いてください。

 

神さまの霊が動く時、悪魔は神さまがなさることを真似することがあります。
しかし、悪魔が真似出来ないことがあります。

 

 

“私の内側で働く恵みで満たされる時です。人生を生きる私とイエスさまとの愛の出会いです。”
ですから、この真理が心に入るまでは、何も変わりません。単なる知識を頭の中に入れたに過ぎません。
 
聖霊さまが私の心に入るまでは、何も変わりません。聖霊さまが、頭から心に下して、移してくださいます。

 

聖霊さまあなたを歓迎します。私の心にお入りください。私は今、あなたの前で”無防備”です。と聖霊さまに語ってください。すると物事が変わり始めます。
聖霊さまの前では、あなたは“無防備”であってください。
無防備ということは、“明け渡す心の状態”です。
そうすると、神さまの愛を身に帯びることが出来ます。

 

祈ります。

愛する父なる神さま、今日も、1週間の旅をして、再び、教会にはいり、祈り、あなたを賛美し、あなたの御言葉を聞き、再び、あなたの力を受けて、新しい1週間に向かいますことが出来たことを、心から感謝をいたします。私たちは、」無防備な心の状態であり続けること、それは、「主への明け渡し。」であることを知りました。そうです。私は主に明け渡すことなくして、信仰はあり得ないことを知りました。主を愛する、アガペーの愛の中で生きる人生こそ、まことの生き方であること。また、あなたに献身していく力と勇気を与えてください。この1週間もともに居てくださいますようにお願いします。

この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン