2016年7月31日 礼拝メッセージ

          主の不思議が愛を造り出す ルカの福音書19章1~10節

 

神様はあなたに計画をもっておられます。
教会にまだ来られていなくても、来ておいででも、創造主なる神はあなたをご存知です。
あなたはこれから、不思議な出来事が起き、不思議な体験をします。
いつ、どのようにかは分かりませんが、それは神の時の中で起きます。

 

あなたが対人関係で戸惑い苦しむ時がそれです。
物事が上手く運ばない時がそれです。
神様に求めることしか方法がないと思う時がそれです。

 

あなたは神様の平安を必ず体験します。

 

 

今日は『主に不思議が愛を造り直す』というタイトルで御言葉を「ザ―カイ」から学びます。

 

御言葉を読むことからはじめましょう。

 

ルカの福音書19110節です。

1、それからイエスが、エリコにはいられて、町をお通りになった。

2、ここには、ザ―カイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

3、彼は、イエスがどんなお方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。

4、それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

5、イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言った。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

6、ザアカイは、急いで降りて来て、そしておお喜びでイエスを迎えた。

7、これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。』と言ってつぶやいた。

8、ところがザアカイは立って、主に言った「主よ。ご覧ください。私の財産の

半分を貧しい人たちにほどこします。また、誰かがらでも、私がだまし取った物は4倍にして返します。

9、イエスは、彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

10、人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

 

 

ザ―カイの仕事は税金を取り立てる取税人でした。その時代、税金は、イスラエルはローマ帝国に支配されていましたので、ローマ税がありました。また、自らの国であるユダヤ税が加算されていました二重税がありました。さらにそれに加えて取税人は人々をだまして、自分のふところに入れるという悪いことをしていました。

 

8節で、「私がだまし取った」とありますが。確かにだまし取っているお金がありました。ですから、取税人は人々から毛嫌いされ、罪人と呼ばれていました。

 

“お金というものは、ある時には、人を生かしますが。またある時は、人を欺くことにもなります。”

 

このザ―カイが住んでいた町は、エリコです。

先週学んだ、バルテマイと同じ町です。

 

ザ―カイはイエス様がこの町を通ることを知って、もう、イエス様とお会いたい、イエス様はどんな顔をしているのだろう。興味しんしんでした。こんな時でないと、イエスさまを見ることは出来ないと思ったわけです。しかし、ザ―カイは背が低かったのです。彼は、自分の背が低いことで笑われたり、いじめられたり、いやな思い出があったのではないでしょうか。そうした心の傷が積み罪上げられて、人が嫌がる取税人になっていった。いや、そこまで追い込まれたと私は思うのです。

 

そういう嫌な体験を沢山していましたから、特別にイエス様とお会いしたいと思ったに違いありません。ザ―カイはイエス様のことを多く知る、情報を得ていたのでしょか。一目でいいからお会いしたい。顔を見るだけでいいから一目見てみたい、しかし、人々は群集になっていて、入り込む余地がありません。そういう中で、ザ―カイはイチジク桑の木が目にはいりました。これだ!と思って、木登りなら誰にも負けないぞ。彼はもう一気に桑の木を登りました。すると、ちょうどイエス様が目の前を通るところでした。ああ!良かった!彼は感動して、このお方がイエス様なんだ~と思ったのでしょう。

 

すると、ザ―カイは「自分の耳を疑う言葉」を聞きました。「ザ―カイ。急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

 

え~~。自分の家に泊まると言ったな、うそかも。ザ―カイにとってはびっくり、彼の心の中は、戸惑ったに違いありません。突然に接待をしなければならなくなりました。イエス様は何の料理が好きのだろかな~、いろいろ考えたに違いありません。

 

7節に、「これを見て、みなは、「罪人のところに行って客となった」

 

ザ―カイは母親の胎から生を受け、祝福された誕生だったのか、それはわかりませんが、きっと愛される誕生だったと思うのです。しかし、何かの難しい問題に直面して、人からだまされたり、そういう苦しい体験があって、それが何重にも積み重なってしまった。ですから、人から嫌われる職業である取税人に追い込まれた。罪人と云うのは「ユダヤ教から破門」されたことを指しています。人間不信になり、そうするうちにだんだん人をだましていくことを覚え、それが当たり前になってしまった。つまり、「罪意識が鈍感」になってしまった。「霊的には鈍感は罪ななのです。」
しかし、おかしいですね。「罪人だと言う人々は、自分は罪人ではない」と思っているのですね。それこそ、傲慢も甚だし人たちです。人の悪口を言って、自分は正しいと思う。それこそ間違えた生き方をしていることに気がつかない。これは、私たちにも言えます。

 

 

さて、イエス様は、ザ―カイの家に入りました。すると、ザ―カイはイエス様の前に立って言いました。

 

8節、ところがザ―カイはイエス様に向かって、言います。

『主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、誰からでも、私がだまし取った物は4倍にして返します。

 

9節、イエスは、彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
10節、人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

 

ここは、私たちにとって非常に大切なことがあります。

 

ザ―カイの家にイエス様がおはいりになった瞬間、『そこは聖霊様の深いご臨在』が行き渡ったのです。
私は、毎週言っていますが『臨在』です。臨在と何なのでしょうか。分かりやすく説明します。
ザ―カイの前に立っていたのはイエス様です。イエス様は愛なるお方です。絶対的な愛なるお方です。その愛は神様の愛です。聖霊様の愛です。
の主の臨在の中にはいると、悔い改めが起こります。ザ―カイはそのことを語っています。
 
日本語では「愛」は一文字ですが、新約聖書はギリシャ語ですので、

 

聖書では三つの意味をもっています。
1、アガペーの愛です。アガペーというギリシャ語は、『神様の愛だけを意味しています』イエス様の愛もアガペーです。聖霊様の愛も同じくアガペーです。

 

2、フィレオーの愛です。親子関係、兄弟関係、友人関係です。

 

3  エロ―スの愛、性的な関係を指します。

 

聖書の中心の御言葉は、ヨハネの福音書3章6節です。

 

16、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである」という御言葉です。
ここで、御子と書かれているお方が“イエス・キリスト”です。イエス様は『神の子』です。ですから、「完全なお方です」。この地上に遣わされて来ました。“イエス・キリストは人間の罪を赦すために地上に遣わされました。イエス・キリストは、「死ぬために生まれました。”それは十字架にかかっての死です“
この死は、私たち、地球上にいたすべての人々、歴史を貫く全ての人々の罪を身代わりになって死んでくださいました。それだけではなく、死からよみがえって、人間の罪は、贖いのゆえに、信じる者は救われます。そこに真の愛があるのです。

ですから、イエス・キリストの中で生きると決める、信じるなら、あなたは、アガペーの愛の中に生きることがそのまま出来るのです。

これがアガペーの愛です。

ここで、父なる神、子なるイエス、すべてを包む聖霊様。です。

 

ものみの塔は、「聖霊様を運動力」と言っています。清水の駅で聞きました。

とんでもありません。聖霊様が今も生きて働く神であることを認めません。ものみの塔、=エホバの証人『異端」です気をつけてください。

 

 

アメリカのペンサコーラという町にある、ブランズビル教会にリバイバる、聖霊様が天から降りて来られました。私も行きました。私は特別に祈りの部屋に入れてくださいました。その部屋は、聖霊様の臨在が満ち溢れて、みな泣きながら祈っていました。私の全ての細胞が入れ替わるような感触です。そして、そこは、かぐわしい香りがありました。伝道者スティーブ・ヒル師のメッセージが終わると、イエス様を受け入れる方は前に出て来て下さいと言われると、若者も幼い子も、また老人も、講壇の前に人々は走ってなだれ込んで悔い改める光景を見ました。警察が泥棒を捕まえて、警察に行くか、教会へ行くかと尋問すると、教会と言います。彼らは、即、イエス様を受け入れて救われます。

 

ザ―カイの場面はイエ様ご自身と聖霊様の二人です。その背後に父なる神が』お出でですから、『すごい臨在が溢れていました。』イエス・キリストは、この人もアブラハムの子なのですからと言われました。

 

1910、人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

 

アブラハムはユダヤ人の祖先です。みなアブラハムの子なのだから。ザ―カイもユダヤ人です。イエス様の救いを信じた、その時に、ザ―カイは誰にも強制されずに、「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。」また、「だまし取ったものは、4倍にして返します。」と言いました。いままで、人をだまして得たお金を揺すっていた者が、『瞬間に悔い改めた。』ここにこのザ―カイの話しの真理が隠されています。イエス様の会うならば、必ず悔い改めの心が自然に沸き上がってきます。ここで、私たちのことも語られています。私たちは、「霊的にアブラハムの子です。」私たちは異邦人です、現在世界中にある教会は異邦人の教会です。やがて、神の時の中で、イスラエルの人々も同じです。

 

そして、イエス様は、「今日、救いがこの家に来ました。と言われたのです。

 

ザ―カイは罪人と言われるくらい嫌われていました。

 

誰でも、人から嫌らわれる仕事はしたくありません。しかし人生を生きる途上で、何かの問題が起きて、生きずまってしまうそういう時があります。あるいは、自らがだまされてしまい苦しんだ時があったでしょう。100人いれば100通りの理由があります。

 

デイビット・テイラー先生は、昨年に日本に初めて来日されました。

先生は、日本にさまざまな講師が来られましたが、先生は別格と申し上げてもおかしくありません。

 

先生は、イエス様と私たちが「顔と顔を合わせる」ことを言っています。そして、先生は17歳の時から、デイビット先生に「イエス様が現れました。それ以来、先生は千回にも及ぶ体験をされ、ある時、イエス様に連れられて、天国行き、アバ父=創造主である、天のお父様とお会いされました。聖会の時にその詳しいことの一部分を話されました。また、聖会の中にイエス様がはいてくる。また、アバ父もはいってくる、ディビット先生の聖会です。

 

私はそれ以来、イエス様と『顔と顔とを合わせたい。イエス様が私の前に来て、お会いしたい』と祈るようになりました。

 

主は御言葉の中で、あなたのところに来ると約束されました。

主の現れ ― 主が私たちと結んでくださった契り ―

イエス様は御言葉の中で、あなたの前に現れると約束なさいました。

ヨハネ1421

21、私の戒めを保ち、それを守る人は、私を愛しする人です。私を愛する人は私の父に愛され。私もその人を愛し、私自身を彼に現れます。

 

 

この御言葉で先生は解説します。

イエス様がこの本を読むんならば、「夢」で自身を『現す』とはっきり約束なさいました。イエス様が「私もその人を愛し、私自身を彼に現します。」とおしゃっているんです。この「現す」という意味の英語はギリシャ語の「エムファニゾー」から来たもので「姿を現す、自分自身を直に示す」「自分自身を直にさらけだす」「言葉で開示する」という意味を持っています。

 

私の人生に起ころうとしていたことを、私が知る前から、御言葉の中ですでに語られていたのです。

 

愛するみなさん 良く知ってください。

 

イエス様は、あなたのことはすでにご存じです。あなたが、「教会に来ていても、教会に来ていなくても、イエス様はすでにあなたの名前もご存じです。」「あなたに与えた計画もすでにあります。」ザ―カイはイエス様とお会いして、ザ―カイ、今日あなたの家に泊まることになっている。と語られたことを思い出してください。

 

ザ―カイに言われたことは、明日の私、明日のあなたかも知れません。

先生は

さらに語ります。

御言葉の中で現れると書いていますから、それを信じることが、一つ。また、眠っている「夢」の中で現れる。ということを先生は特に強調されています。

 

驚くべきことをこれから話します。

現在、世界を震撼させているISの兵士にもイエス・キリストが現れ、自分がしていることを悔い改め、捕らわれている方々を解放することに勇気をもって助けています。

 

インド・ネシアのジャングルの中にいる方々の部族長にイエス様が現れて、部族みなが救われました。

 

イランのイスラム教徒の前にイエス様が現れてくださり。多くのイスラム教徒が救われました。

 

このメッセージを見てくださっている方にも、同じことが起きますように祈ります。

 

新約聖書は、4つの福音書はイエス様のことがすべて書かれてあります。それ以外の多くの部分は「パウロが書いた手紙です」。パウロはクリスチャンを徹底的に迫害をしていたトップの人間でした。ダマスコにクリスチャンが沢山集まっている情報を得て、馬に乗って、ダマスコに居るクリスチャンをすべて捕らえるために進んでいました。その途上で、天から稲妻のよう閃光が現れて、「サウロ=パウロの前の名前」サウロの前に現れて、「サウロ、サウロ、何故、私を迫害するのか。」と言われました。どうして、彼の名前を知っていたのでしょうか。そのサウロにイエス様が現れて、救われました。それからのパウロは、死も恐れることもいとわず、殉教するまで、イエス様のことを語り続ける器に変えられました。

 

この地上に神様によって、最初に造られた人間は、『アダム』でした。次に、人間は一人でいるのはよくないとおっしゃり、エバが創造されました。その時、二人はエデンの園で問題もなく、『神様と顔と顔を見合って生きていました。神しかし、この二人は悪魔にだまされて、神様が命令ることが約束されていたことを破ってしまいました。それ以来人間に罪が入り込んだのです。

 

 

神様は、罪を犯した人間を救う計画で、地上に我が子イエス・キリストが遣わされて、その時代の人はイエス様とお会いしました。

 

 

イエス様は、人間の罪を救うため、ご自身が十字架にかかられて、私の、あなたの罪を負われました。その後3日目に死からよみがえりました。神様の人類を救うことが完成しました。

 

イエス様は、天に上げられ、地上に聖霊様が遣わされて現代まで聖霊様が働いています。

 

人間は罪をもっていますがから、イエス様とお会いしたです。お会いする資格があります。私たちは完全な存在ではありません。欠陥だらけの存在者です。完全な人間は一人もいません。聖書に出てくる人物も完全な人は一人としてしません。天のお父様=アバ父、イエス・キリスト様、聖霊様しか、真の愛を持っている存在者はいません。

 

 

神様は、私たち人間を愛されています。「至高の愛」を守っておられる唯一のお方です。

 

神様は、あなたに完全になれとは一言も語ってはいません。欠陥だらけの私でも、主は、私を愛しておられるのです。

 

愛とはどのようなものなのでしょうか。

Ⅰヨハネ7~9

7、愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。

8、神はその一人子を世に遣わし、その方によって私たち、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私た示されたのです。

9、私たちが神を愛したんではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの備え物としての御子を遣わされました。ここの愛があります。

 

 

愛するみなさん、良く知ってください。

 

 

今、教会に全国からお電話でカウンセリングをしてほしいと云う方々から電話が来ています。

 

誰にも話すことが出来ないで、一人、孤独の中におられる方々がお出でだと思います。心の傷を受けて先に進めなくなってしまった方々、悪霊に捕らわれている方々がお出でだと思います。また、

 

ものみの塔モルモン教統一協会べレア新エルサレム教会セブンスデー・アドベンティストまだまだ『異端』はありますが、そこで洗脳されて、身動きが出来なくなっている方々、傷が深いゆえに立ち止まってしまい、そこから、次の一歩を踏み出すことが出来なくなった方々、沢山の人々がおられます。

どうか、勇気を出して、電話を下さい。日曜午前10時半から礼拝があります。私がメッセージします。清水、静岡周辺、あるいは車で行ける距離であれば、どこからでも、いらしてください。勇気を出して静岡ベテル教会にいらしてください。あなたを心から歓迎いたします。教会は3階です、私たちは二人とも牧師です。2階が私たちの牧師館です。

 

 

『教会は神様の愛の共同体』です。

『イエス・キリストの御名によって、謙遜にされ、誠実にされて、生きる意味と力が与えられている場所です。』

『イエスキリストの御名によって、悪魔悪霊どもを追い出す力ある存在』です。

 

イザヤ書434

4、私の目には、あなたは高価で尊い。

私はあなたを愛している。

 

 

エレミヤ2911

11、私はあなたがたのために立てている計画を良く知っているからだ、―主の御告げ。― それは災いではなく、平安を与える計画であり、あなたがたに

将来と希望を与えるためのものだ。

 

 

神様はあなたの名前をご存知です。

 

 

日本の国は、偶像の国です。

何でも神になります。

石も神になり、

木も同じように神になります。

人も神になります。

 

偶像は何をしてくれるのですか。

 

何もしてくれません。

お札を買って、自分を慰めているに過ぎないのです。

お正月になると、日本のほぼすべての人々は神社に行きます。

そこで、家内安全のお札を買って来ます。

大きなもののほうが効き目があると、高い値段のほうを買う人もいるでしょう。

 

私は、一人の方が、お札を買ったその日に、交通事故にあった方を知っています。

 

自分で自分の罪を赦すことは出来ません。

旧約聖書の時代は、罪を赦すために、自分に代わって、動物をほふって自分の罪を赦しました。

 

しかし、現代はイエス様がすでに十字架上で、私の代わりに死んでくださいました。ですから、信じる者は即、救われます。

 

16世紀にマルチン・ルターという人物が、当時のカトリック教会に反旗を上げて、プロテスタント教会が誕生しました。来年で500年になります。マルチン・ルターが疑問に思ったのは、免罪符と言いますが、それを買うと罪が赦される。とカトリック教会はやったのです。そしでお金を得ていました。とんでもないことをしてしまいました。

 

日本のお札と同じです。

 

お金を出して、罪が赦されるのでしょうか。地上の全ての人々は罪をもっています。
罪の根本的な意味は、『真の神を神としない。的外れな生き方をしていることを罪と言うのです。』

 

パウロは罪について語ります。

 

ローマ58

8、しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対してご自身の愛を明らかにしておられます。

それは、イエス・キリストが、私たちの罪のために、代わりとなって十字架で死んでくださり、よみがえられたという事実に対して、私はイエス・キリストを神の子であることを認めないで生きて来ましたが、私は信じます。私は愚かな歩み方をして来ました。しかし、今、私は悔い改めます。と自己表明するならば、あなたは救われます。

 

はじめに戻ります。

ザ―カイは、金持ちでした。人々をだましていたからです。

しかし、彼は、悔い改めました。

主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、私がだまし取ったものは4倍にして返します。

 

と表明しました。

このザ―カイに何がかが起こったのです。彼の心の中で何かが崩れ落ちました。ザ―カイは新しい、イエス様と共に生きる強い悔い改めが起きて、心が生まれ変わり、新しい人生を歩む者に変えられました。

 

それは、反省するとかの、そういうたぐいのことではありません。

自らの人生の歩みを、イエス・キリストの上に、自分を置くことを決心したからです。

 

愛するみなさん 良く知ってください。

 

霊的世界があります。神様と聖霊様。一方は悪魔悪霊ども。

 

あなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたは、罪から解放されて、まことの自由を得ることが出来ます。自由とは、地上で生きている間は、神様の愛の中に生きること指しています。愛は、神様が与えてくださった、人間の最高のものです同時に、永遠のいのちが、私のあなたの中で与えられます。もはや、死んでも生きるのです。その先には『天国』があります。

 

愛は神様そのものです。
ですから、『教会は愛の家族』です。
『もしも教会に愛がないならば、その教会はうそです。』
『教会がどのくらい人がいるんだろう。』

 

そういう思いになってはいけません。

 

『教会は神様の愛が溢れているところです。』
『ザ―カイはイエス様の愛に気付いたのです。』
『世では嫌われ者でしたが、イエス様とお会いして感謝の生き方に変えられました。』

 

あなたの人生も変えられます。
素晴らしい人生を体験をします。

 

それはお金では決して解決出来ない世界です。

ザ―カイのように、あなたも祝福されますように。

 

祈ります

 

愛する父なる神様、今日、1週間の歩みを終えて、再び、あなたの身前で、礼拝出来ることを心から感謝しています。神様の愛は無限大です。イエス様をこの地上に遣わしてくださり、私たちの罪の身代わりとなって下さったことを、今日知りました。真の愛はどういうものかも今日学びました。イエス様がこの地上に来られたのは、私の罪のゆえでした。私たちはイエス様を心に迎えるなら、救われます。永遠のいのちを頂きます。天国の市民の約束を得られます。主よ、どうぞこの地上の全ての人たちが、イエス様の前に出て、自らを悔い改めて新しい人生の歩みが出来ます。それは神様の約束です。その約束のゆえに、神様、あなたに感謝いたします。また、これからの1週間の歩みの中でいつも神様、イエス様、聖霊様の愛の中で生きることが出来ますように守ってください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祝福し、祈ります。   アーメン