2016年1月24日 礼拝メッセ―ジ
自分を現すのではない マタイ28:1~6
マタイ28:1~6
1、さて、安息日が終わって、週の初めの明け方、マグダラマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
2、すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
3、その顔は、いなずまのように輝き、その衣から雪のように白かった。
4、番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のうおうになった。
5、すると御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
6、ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
今日のメッセージは「自分を現すのではない」というタイトルで御言葉を伝えます。
私たちはどういう立場に置かれている者であるかと言いますと。
⇒ イエス・キリストの代弁者です。
私たちは、神の御国を現す者として招かれました。
ですから、主を正しく現すために、主を良く知らなければなりません。
イエス様のありのままを見なければなりません。
神様は、神様ご自身を見るためにみなさんを必要としています。
弟子たちは、イエス様と長い間行動を共にしてきましたが、イエス様を理解するのに、時間がかかりました。
その弟子たちが、一気に変えられたのは、使徒の働き2章の聖霊様が天から
降って来た時に、瞬間的に偉大な使徒とされ、イエス様の十字架を伝える者となりました。11人は殉教しました。
残されたのはヨハネでした。ヨハネは「パトモス島」に流刑になり。ヨハネの黙示録を書きました。
神様の計画はすごいですね。終末の時代にあって、終末は、イエス様もダニエル書にも書かれていますが、黙示録がなかったならば、終末の時代はどのようになるのか、もっと詳しく知ることは出来ませんでした。
ここに深い神様の意志と計画を見ることが出来ます。
イエス様が病の者をいやし、歩けない者を歩かせ、目が見えない者を見えるように、数々のしるしと不思議と奇跡のみわざを現しました。
イエス様は何とかして分からせようと、弟子たちの心を揺さぶり動かしました。
神の御国はどういう国かをしっかりと植えつけようとされたのです。
エペソ1:11
11、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、御心によりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定めされていたのです。
『天の御国が地に侵入しました。ですから、天にある神の御国に思いを向けながら、地の神の御国の拡大に心を傾けるのです。そこから、地にある御国を前進させる者として生きるのです。それが証しです。』
この神の御国をしっかりと覚えてください。
この御国、王国とは、王の王、イエス・キリストです。
イエス・キリストは王の王、主の主、キング・オブ・キングです。
神様は、あなたの心の中を揺さぶり動かしています。あなたの人生に働かれています。神様は、ご自身の計画とビジョンをあなたが、はっきりと分かることが出来るように願っておられます。
エレミヤ29:11
11、私はあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
― 主の御告げ―
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
アーメン
イエス様は弟子たちの心を揺さぶられました。
イエス様がどういうお方かを理解させるためにです。
同時に、みなさんの心を揺さぶっています。
みなさんが、イエス様を良く知るためです。
平坦な人生はありません。
人生は簡単なものでもありません。
人生はイエス様にあって期待するものです。
期待する人生は素晴らしいです。
今日の御言葉です。
マタイ28:1~2
1、さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。
2、すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石のわきにころがして、その上にすわったからである。
3、その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
まずここまで、
イエス様は十字架に掛けられ死なれました。
その死は、単なる死ではなく、私たちの罪の身代わりとして死んで下さいました。
イエス様は自らが十字架お掛かりになることをあらかじめ、弟子に伝えました。
マルコ8:31
31、それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえなければならないと、弟子たちに教え始められた。
愛するみなさん
私たちは、毎週礼拝をしています。
礼拝は儀式ではありません。
神様を確認する時です。
私の、あなたの生き方が変化する時です。
あなたは変えられます。
あなたの人生は変化します。
神に御国が前進しています。
イエス様は、イスラエルの国で、その民に、三年半かけて揺らし続けたお方です。
イエス様は前進されました。
死ぬために前進されました。
イエス様が葬られた墓に「地震」が起きたのです。
いわゆる地震であるならば、広範囲が揺れたことでしょう。
しかし、この地震は、イエス様が葬られたお墓にだけ起きたのです。
⇒この地震が、神様のものであると信じるならば、あなたの信仰は成長しています。
地震によって、大きな石が転がり、その石の上に二人の主の使が座っていました。白い衣は白く、その顔は、いなずまのように輝いていました。
この光景は、その場にいないと分からないですが、想像して見てください。
すると御使いは、マグダラのマリヤたちに言われました。
5、恐れてはいけません。あなたがた十字架につけられたイエスを捜しているのを私は知っています。
6、ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
イエス様が死からよみがえりました。
イエス様が死からよみがえられました。
ハレルヤです。
イエス様はその後、天にお帰りになり、アバ父の右の座に座られました。
多くの方々が学者も含めて、人間はよみがえるはずがない。そんなことはうそだと、2000年間論争が絶えません。
しかし、クリスチャンは信じます。
パウロは言いました。
Ⅰコリント15:14~17
14、そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり。あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15、それどころか、私たちは神について偽証した者ということになります。何故なら、もしかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
16、もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがらなかったでしょう。
17、そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるんです。
アーメン
イエス様が復活されたことが、おとぎ話しであるなら、私たちの信仰はいったい何でしょうか。
礼拝によみがえりのイエス様がいないならば、私たちは、本当に何者でしょうか。
イエス様が十字架のお掛かりになることは、復活することも、聖霊様がそのあとの時代をご支配してくださっていることは何でしょうか。
このように創造主である神様は、私たちの人生を揺すぶりかけます。
それは、イエス様がどういうお方かをありのまま見るためです。
聖霊様は、あなたの心を揺さぶります。
イエス様は、聖霊様を通して、臨在を現して下さっています。
臨在のない礼拝はしないと牧師が言い続けています。
その理由は臨在のない礼拝は無に等しいからです。
イエス様は、礼拝されるべきお方です。
復活にのイエス様にお会いした時、彼らは礼拝しました。
マタイ28:16~19
16、しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
17、そして、イエス様にお会いした時、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
18、イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「私は天においても、地においても、いっさいの権威を与えられています。
19、それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子にしなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20、また、私があなたがたに、命じおいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます。
アーメン
弟子たちは、もうイエス様を偉大な預言者とは見ていません。
偉大な教師とも見てはいません。
弟子たちは礼拝しました。
イエス・キリスト様は王の王、キング・オブ・キングです。
弟子たちがイエス様を分かるまで彼らを揺らし続けました。
私たちは、これを分からなければなりません。
私たちの環境が、私たちを支配しません。
私たちの王が、私たちの人生を支配されています。
イエス・キリスト様は、私たちが生まれる前から、私たちをご存じでした。
みなさんの人生は神様の中にあります。
今日のタイトルに入ります。
愚かな人間は、自分が先にあって神様を考えます。
私が先ではありません。
この地上に「愛」と云う言葉があります。
この言葉が使われ過ぎて、愛と云う言葉が軽く扱われ地に落ちています。
愛は人間にはそもそもありません。
Ⅰヨハネ4:10
10、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
神様が私たちを愛したので、人間は愛を知ったのです。
愛は、神様の性質です。神様には愛しかありません。
神様の愛は「アガペ―」の愛です。
それ以外は人間関係の愛なのです。
この人間関係の愛が愛とされている。
みなさんは良く知っておいてください。
日本の国は偶像の国です。
880万がいると言われています。
石が神になり、木が神になり、有名人が神となり、神は増え続けています。
ですから、神でなく神々です。
神様はお一人です。
これから「鷲」の話しをします。
鷲は、誇り高い鳥で非常に頭が良いのです。
鳩のように羽根をばたばたさせません。
鷲は鳥の王様のようにグライダーのように滑空して飛びます。
上昇気流を捜してスーと上がって行きます。
その目はいつも獲物を捜していて、見つけると、一気に滑空して捕まえます。
鷲は風に立ち向かいません。
風に乗ることに長けています。
ある科学者が、鷲の頭にカメラを乗せて、鷲がどのように飛ぶのかを研究しました。するを、鷲は先の羽根を微妙に動かして飛んでいることが分かりました。
また、多くの鷲50年以上生きることが分かりました。
また、さらに分かった事は、30才くらいになると、多くの鷲は落ち込み、落胆し、拒食症のようになり、食事も取れないそういう時期を経験するのです。
多少の前後があっても一応にそうなることも分かりました。
理由は、自分が誰よりもかっこよく身に付けていた、その翼が抜け落ちてしまうからです。
最後には一本の羽根もなくなります。何か、七面鳥が焼かれる時のように一本の羽根が無くなります。鶏のように地面を歩くしか方法がなくなり、鷲のプライドがこっぱみじんに砕かれるからです。
鷲のアイデンティティーがなくなってしまい、鷲は絶望し、悩み、落ち込み、拒食症のようになるのです。
丘の上に鶏のようによちよち歩くだけになってしまう。
鷲にとってはみじめな姿です。
ショック症状を起こすのです。
そして、ある鷲は死んでしまいます。
実は、この時期は鷲の羽根、翼が新しくされる時期なのです。
外観が変わる時に、鷲の内側も変わります。
鷲は、自らが変わる時なのだという理解は出来ません。
言葉や知恵や知識やそういう人間にあるものまでは持ち合わせていないからです。まさに、鷲の試練のときが突然襲ってくることになるわけです。
科学者は調べました。
鷲が死ぬのは、食料を食べることが出来なくなって餓死してしまうのではなく、その時期、鷲は岩場の裂け目に身を隠し、太陽の光りがある所を住み家とし、小川が流れている場所を見つけて、そこで水を得て、その岩の裂け目で待つのです。すると大きな鷲が食料を運んで来て、その場に食料を落とすのです。
ですから、食料がないから死ぬのではありません。
自分がみじめな姿に絶望し、落胆して、精神的に耐えられないで鷲が死ぬのです。ショック症状から立ち直れない鷲が死ぬのです、
3ヶ月くらい経つと、不思議な羽根が生えてきます。
いままでと違うで性質の羽根です。
経験に富んだ翼が生えてくるようになり、しかも、以前とは違う、知恵に富んで、微妙な小さな風も捕えることが出来、再び、かつての権威ある鷲として、君臨することが出来る存在になります。そして、今度は以前にまさる、飛躍した飛びかたが出来るようになります。
愛する兄弟姉妹
私たちは全ての者がそのような、大きな試練を通される時があります。
みなさんは、食べ物があっても、絶望し、落胆し、落ち込み、拒食症のようになる時期を経験してきたでしょうか。
あなたの生きる羽根が抜けてしまった。
自らの姿、環境に悲観し、落ち込み、落胆してしまう時、鷲のように風に逆らわないで歩むならば、何かが変わるはずです。
あなたが、困難、試練が立ちはだかるならば、あなたの新しい翼が生えて来ることをここで覚えたいと思います。
今日の本題にはいります。
鷲はプライドの高い鳥のように。
人間はそれ以上にプライドが高く誇りを持っています。
私たち人間が誇るということはどういうことでしょう。
ローマ15:1~9
1、私たちの力のある者は、力のない人たちの弱さを担うべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
2、私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益になるようにすべきです。
3、キリストでさえ、ご自身を喜べせることはなさいませんでした。「あなたをそしる人々のそしりは、私の上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。
4、昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
5、どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
6、それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を誉めたたえるためです。
7、こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。
パウロは一つの棘を持っていました。
パウロは主に祈りました。
その棘は、自らが高ぶることがないためであった。
この棘を、私から取り去ってくださいと三度も願った。
『しかし、主は私の恵みは、あなたに十分である。
私の力は、弱さのうちに完全に現れる。と言われました。
パウロは、だから、キリストの力が私に覆うために、私は喜んで弱さを誇ろう。
私は弱い時にこそ、私は強い。』 Ⅱコリント12:7~10
この『逆説的真理理の言葉』の中に主の御声が聞こえてくるようです。
人間は自らを誇る何ものも持ってはいません。
自分を誇るものは何もない。
只、神の前で恥ずべき者です。
いつも自分よりも「隣人のために心を砕く者」である。これが、神様が創造した人間の姿です。
病む者がいれば、その病がいやされるために切に祈ること。
苦しむ者がいれば、その苦しみに心を傾け、祈ること。
悲しむ者がいれば、その悲しみに心を寄せて祈ること。
クリスチャンはそういう存在です。
コロサイ3:12~16
12、それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
13、互いに忍び合い、誰かがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
14、そして、これらのすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
15、キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
16、キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に歌いなさい。
イエス様は自分のために生きませんでした。
人の姿を取って、私たちが生きるための必要な罪の贖いのために、命を捨てられました。
自分には一切の罪はなかったにも関わらず、私のために罪を赦すためになだめの供え物となってくださいました。
愛するみなさん
私たちは、聖霊様の風をつかんで、空を滑空していく存在です。
イエスはあなたの過去のフィルムをお持ちです。
創造主なる神様は、そのフィルムをイエス・キリスト様を信ずると告白をし、バプテスマを受けた瞬間、そのフィルムの中身は取り出して下さいます。
今日は救いの日です。
今日は、あなたの過去が死んだ日です。
人生は主にあって期待します。
新しい翼をまとって、新しい人生に踏み出します。
自分が先ではありません。
主が用意されたことを一つひとつをつかんで、歩みを取ってまいりましょう。
祈ります。
愛する父なる神様あなたは、私たちが人生を生き、歩むために、イエス・キリスト様を世に遣わしてくださり、そのゆえに、イエス・キリスト様は十字架に向かって歩んでくださり、私の罪をすべて贖うために、私の身代わりとなってくださいました。あなたは死ぬためにお生まれになりました。ただただ、感謝いたします。私に誇るべきものは何も持っていません。ただ、御言葉にありますように、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を持って生きていくことが出来ますように、助けてください。聖霊様、あなたのご臨在が豊かに教会に注いでくださいますように、教会に愛が溢れ、いつも喜び、祈り、感謝出来る信仰がさらに備えられますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン