2016724日   礼拝メッセージ  

           奇跡のいやしの条件   マルコ104552

 

 

私たちの主、イエス・キリストの名がすべてにまさっていることを感謝し、誉めたたえます。
この名にまさる名はありません。
すべての者はこの名に「ひざまずきます。」
みなさんは、イエス・キリストの名を頂く特権を頂いています。

強いられてでもなく、主を礼拝します。

「主に礼拝すること」は、「膝をかがめ、心低くして、主の前でイエス・キリストの十字架によって罪赦された者にされたことを、感謝する行為です。」

 

私のすべては主のものです。

天の御座はここあります。

 

『教会は、天と地を結ぶ通路です。』

『教会は神の愛の共同体です。」

 

御言葉は天から主のご臨在が著者に下り、書かれた「聖なる書」です。

礼拝で神様が生きていることを体験します。

主のご臨在がここにあります。

 

 

今日は、バルテマイを中心に『救い』について学にたいと思います。

バルテマイは目が見えない病を負っていました。

 

46、「道端に座っていた」『物乞い』をしていました。

 

おそらく、誰かが物乞いをする場所に連れて行ってもらい、座っていたのだと思います。家族か、また他の人が、そうしました。

 

『群衆』と書かれています。

エリコの町は、数えきれない群集がエリコに続々と集まってきていることが分かります。それ程にイエス様の存在が分かっていたことを知ることが出来ます。

このエリコでは、取税人ザーカイも救われました。

遠くイスラエル民族がエジプトから奴隷から解放され、イスラエルに入る最後にエリコの壁に立ちはだかりました。その時神は、ここエリコの町があり、主が、このエリコの町を7度まわり、しかも誰も声を出さないで声を出してはならない。7周した時に主がこの時だと命じられ、角笛を吹いた時、「大声で時の声を上げよ」と云う神の指令があり、オーと声を上げた時、エリコの城壁は陥落したと云うことが書かれてあります。ヨシュア記6:1~16

 

 

今日の主題テーマである、「バルテマイ」に移りましょう。

 

エリコにイエス様が通られるうわさが聞こえて、バルテマイは、すぐにイエス様が、自分の目を癒してくださと確信したのです。

 

彼は、『この時を逸したら、一生涯目が見えないままで終わってしまう』と思ったのです。ですから。ダビデの子イエスさまだと聞くと、大声で「ダビデの子、イエスさま~私をあわれんでください。と立ち上がり、呼びました、叫びました。」「誰が何と言おうと、そういものは関係ない。只、ひたすら叫びました。」

 

 「ダビデの子イエス様~、私を憐れんでください~!!」と叫んだのです。

 

この記事はマタイ、ルカにも記載されています。それ程に、盲人を癒した出来事が特別なものであったことを示しています。 

 

さて、バルテマイは、『必死になって、ダビデの子イエスさま~と只叫び続けました!

しかし、周りの人々は彼を黙らせようとしたのです。

お前のような者は、イエス・キリストとは関係ない。

お前はあっちに行っていろ。

お前のような者が来る場所ではない。

 

そういう光景が目に見えるようです。

 

それでも、誰が止めようが、バルテマイは叫び続けたのです。

とうとうイエスさまがこの声を聞かれました。

 

48、イエス様は、立ち止まり、その叫ぶ者を連れて来るように弟子に命じました。

 49、バルテマイがイエス様の前に立った時に、「心配しなでよい」「さあ、立ちなさい。あなたを呼んでいる。と

  50、すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。

ここで上着を脱ぐ捨てと書かれてあります。

おそらく、物乞いをする者は、私は物乞いですということを知らせるために、特別な服があったにではなかったかと思います

 

51、イエス様は、私に何をしてほしいのか。と聞きました。

バルテマイは、即座に、『目が見えるようになることです』と答えました。

 

ダビデの子イエス様、私をあわれんでください。
バルテマイは答えます。「目が見えるようになることです」
ここで、イエスさまは、誰が見ても目が見えない盲人だと分かり切っていたわけですが、あえて聞いたことろに深い意味が隠されています。イエスさまが、何をしてほしいのか。と聞いたことは、バルテマイがをテストしたのです。イエス様、あなたは私を完璧にいやしてくださるお方だと信じます。
癒されるための条件をがここにあります。

 

 52、すると、イエスは、彼に言った。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。すると、すぐさま目が見えるようになり、イエス様について行った。

ここに注目してください。

バルテマイはイエスさまのいやしを信じました。その彼の心の中を見てから、さあ行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。と宣言しました。すると、すぐさま目が見えるようになった。

ここの「すぐさま」に注目です。

イエス様がなさるいやしのみわざは、『すぐさま』です。御言葉に中に出てくるいやしは、『すぐさま』『即』です。

私たちは、どの人も『罪』をもっています。

 

ローマ人への手紙1:29 ~32

29 、彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみでいっぱいになった者、陰口を言う者。

30、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

31、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

32、彼らは、そのようになことを行なえば死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 

まだまだたくさんの罪があります。

私は罪は犯していないと思う人は間違っています。

自らを見直してください。

警察にお世話になっていない。刑務所にはっていない。だから罪はない。と主張する者は、自分の先ほどのことは大なり小なりあるはずです

『神はいない』、それは『大言壮語」を言っていると同じことです。

真に神は『天地を創造し、すべての森羅万象を造られ、人間を創造された神様が本当の神様です。創造主です。

愛するみなさん。よく聞いてください。

まことの神を信じるなら、『すぐさま救われます。即救われます』

神様は愛で満ちておられます。どんな罪を持ったとしましても、神は自らのひとり子を地上に遣わして、人間の罪を赦すために、十字架に掛かって殺されました。しかし、3日後によみがえりました。どんな者でも、イエスさまのあがないの死をこえて、信ずる者は救われます。あのバルテマイと同じです。『すくさま』『即』です。

このバルテマイの姿の中に、自分を見るのです。これが正しい御言葉の読み方です。

 

43、イエス様が彼に、「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを直した。」

 

そうです。『あなたが自分の罪を認めるなら、神様は愛なるお方ですから、すぐさまあなたは救われます。バルテマイのようにです。私たちは、この地上に生きています。真理が何かを私は語っています。ですから、この地上の中でイエス・キリスト信じてください。素晴らしい霊の世界も分かり、人生を生きることには深い意味があります。牧師はあなたの悩みや問題を解決できるように導きます。牧師である私があなたにお勧めします。教会へお出でください。教会に来るために入会金などいりません。問題はお金ではないのです。霊の世界があって、正しい霊の世界を私は言っています。なぜですか、霊の世界を間違って教えてだますことがこ多いのですから。』礼拝の中で献金はあります。それは、あなたが出来る範囲の中であなたが決めることです。お金で人生を買うことなど出来ませんでしょう」

 

 

 さて、進みます。

病を負っている。腰が痛いとか、目が痛いとか、私たちはどこかに、故障するところがあります。

 しかし、難病で治る薬がない。癌であったり、とにかく、治ることは奇跡が起きることを願わないと、死に至ってしまう。そういう病は奇跡を呼び込む祈りは重要で重要なことです

 

私は奇跡を信じ期待します。
何故ならば、私は多くん病から解放さたからです。

 

私は、主のいやしの霊が飛び込んで来る。そういう牧師になりたいと願い続けて来ました。しかし、いやしは聖霊さまが成す御業です。あの先生に癒されたという言葉は慎まなければなりません。

 

 聖霊様が癒し主です。それ以外はありません。
 

私は、11月にアルゼンチンに行きます。カルロス・アナコンディア先生、クラウディオ・フレーソン先生、また多くの先生がたとおにお会いすることになっています。また、リバイバル教会を訪ねることになっています。アルゼンチン・リバイバルに触れたいと、もう、私の心は、餓え渇くのです。

 

私は、飢え渇いて、破裂しそうです。イエスさまと顔と顔でお会いしたいです。

 

アメリカでは起こっています。デイビット・テイラー先生が先頭に立っています。いま、この時が重要だ。この時が私の人生も折れ線グラフだ。この時を逃したら一生後悔する。だから、今日を、今が重要だと思っているのです。 難病で、薬も開発されていな病の中にいる方々に、聖霊様のいやしが届くように、そういう切実な祈りです。そう言う、病に置かれている方々がたくさんいます。

いやされる、第一の条件は、イエス様を信じることです。

私の心が霊的に死んでいたのが、イエス様によって救われたことをアーメンと信じるなら奇跡が起きます。これが第一の条件です。

 

私の罪を、イエス様ご自身が、身代わりとなって十字架におかかりになり、死んでくださった。そして。よみがえられました。イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちを頂いて、天国へ行くことが赦された。それが私ですと宣言します。

使徒の働きでは、聖霊様の超自然的なわざが行われたことが書かれてあります。

 

第二の条件は、バルテマイのように、ダビデの子イエス様と叫ぶ続けたことです!

 

イエス様は、バルテマイの信仰を試されました。

 

 私は『超自然的ないやし』のみわざを信じ、求める牧師です。

 

繰り返しますが、奇跡をなさるお方は聖霊様です。私には力はありません。本当に、何の力もありません。

只、御言葉は握りしめているのです。御言葉に力があります。御言葉は神の言葉ですから。その方の上に、聖書のに手を置くだけです。

 

ケネス・ヘーゲンという伝道者がいました。

世界中を回っていました。超有名な伝道者です。

 先生が証しています。

アメリカ、テキサス州で癒しの聖会をしていました。

 

一人の婦人が、小児麻痺の子どもを連れてきました。

8歳か9歳くらでしょうか。

その足は立つことが出来ない、歩くことなど、まったく出来ない。

この時、先生は、超自然的な現れを感じなかったそうです。

私は、神の言葉を彼女に語り、彼女はイエス様を信じました。

 

その子の手を置いて祈りました。

しかし、何の現れもありませんでした。

 

彼女は子どもを連れて帰りました。

 

お母さんはその晩、わが子をお風呂に入れて上げていました。

足の支えを外しました。

お母さんはひざまずいて、お子さんを入浴をさせてあげていました。

 

お母さんは言いました。「私は主よ、残念です。この子をいやしてもらえませんでした。そして泣き出しました。

その時、ヘーゲン先生の言葉を思い出しました。

お母さんは、主よ、私はイエス様が救い主として信じました。ですから、この子はいやされると信じます。

 すると、何か乾いた棒のようなものが、ポンと鳴る音が聞こえました。見ると、わが子の足がまっすぐになっているではありませんか」

 

女の子は両足が同じ長さになり、子どもは正常に歩くことが出来きたのです。

 

この奇跡は、神の言葉を伝え、教えた結果として、また、信仰あるお母さんが神の言葉を信じ、神の言葉に基づいて行動した結果として起きたのです。

 

 

私は超自然的な現れを信じ期待します。心からの求めです、飢え渇いて。飢え渇いて破裂しそうです。

 

バルテマイにはこの思いがありました。

「今、この瞬間、この時をのがしたら、一生涯、見えないで終わってしまう。」

 

ローマ108

8、では、どういいますか。御言葉は、あなたの近くにあります。

あなたの口にあり、あなたの心にある。

これは私たちの宣べ伝えている信仰の言葉です。

9、なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえられてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

10、人は心で義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

愛する兄弟姉妹

 

私たちの人生の中で誰もがこの時を逃したら」という場面に立たされる時が必ずあります。「この時を逃したら。」一生涯、後悔がついて回る。

「あの時」とあとで思っても遅かった。

 

人生はそういうものです。

 

イエス様がいやしのみわざをなさる時には、常に聖霊様がおられました。

 

三位一体の神は、アバ父、、イエス・キリスト、聖霊様です。

この三者は絶対です。

これを変える者はすべて異端です。

 

どの時代においても、この関係は絶対です。

ですから、イエス様のいやしには聖霊様も共におられました。

 

イエス様は天にある御国から地上に遣わせられました。

その目的は、地上のすべての人々の罪をあがなうためでした。

言葉を変えて言いますと、十字架で死なれ、3日目によみがえること。これがイエス様の生きた目的でした。

 

そして、聖霊様が全面に出て、現在があります。

 

終わりの時代の現代は、イエス様もアバ父も地上に来られることが始まっています。ここを信じる者は最高の祝福を得ます。そんなことはないと否定する者は、あとで後悔します。私はイエス様が写し出された写真を見ました。何か細工しているのではありません。

 

TLオズボーンという世界を回る伝道者がいました。

日本にも来られました。

先生の本にこのような出来事を証されています。

 

この出来事はラテン、アメリカのどこかの国で聖会での証です。

 

ある物乞いがいました。彼は14年間悪霊につかれ、精神に障害をもっていました。ある夜、この人はあてもなく歩き回り、私たちが開催していた聖会の野外会場に迷い込んで来ました。どうやってこの男が、私たちの聖会の会場まで来ることが出来たのか、誰も分かりません。

  彼は路上で生活し、道端の溝の中で寝起きし、生きるためにゴミ箱をあさって飢えをしのいでいました。衣服は汚れ、ボロボロにすり切れていました。髪の毛とあごひげは伸び放題で、動物の毛のようにもつれていました。

 

 

この哀れな男は、群集から外れた場所に立っていました。私たちが説教を終え、人々の救いのために祈っている時、イエス・キリストが突然この男の前に現れてくださいました。イエス・キリストはこの男に指を指し、中にいる悪霊どもに向かって、「この人から去れ、二度と来てはならない」と命じられました。」

『その瞬間』、彼は正気をとり戻し、完全な人になり、キリストに従っていく決心をしました。

 

 

この人は、自分の身に起きたことを、どうしても群集に話したくて、人々をすり抜けてステージのステップを進んで来ました。会場係はこの人がこの町で物乞いをしていた精神障害者であることを知っていて、ステージに上がらさませんでした。そこでこの人は、反対側のステップに来て上がろうとしましたが、会場係が仲間に合図したために、またもや止められてしまいました。

 

幸運なことに、聖会の後で何人かのクリスチャンがこの人に目を止め、イエス・キリストが彼に現れてくださり、恵みによって彼の人生に奇跡を起こしてくださったことを知りました。彼らはこの愛すべき人を自分の家に連れて行き、お風呂に入れて上げました。その翌日、彼らはこの人に新しい洋服を買い与え、床屋で散髪をし、ひげを剃り、また聖会に連れて来たのです。

 以前は精神に異常があった男が、立派な紳士の格好をして、キリストが自分にしてくださったことを証しするために、ステージに上がって来ました。この素晴らしい体験をした男性は、話し出しました。しばらくして平静をとり戻すと、人々に向かって話し出しました。

 みなさんが私を見て、私が誰であるのかお分かりになるなら、会場係の人は、キリストが私の人生に成し遂げてくださったことを証しさせてくれなかっただろうと思います。

 実に私は、14年もの間この町の路上で寝起きし、ゴミ箱をあさって食べている生活をしていた、あの物乞いです。悪霊が私を滅ぼそうとして私に取りついていたので、あのような生活になったのです。私が好んであのように生きてきたのではなく、悪霊どもが私をコントロールしていたのです。

 昨晩私は、何故ここに来たのか分からないのです。オズボーン先生がみなさんのために祈っている時、私はイエス様を見たのです。イエス様は悪霊どもに、私から去って行くように命令しました。イエス様がその言葉を発したとたん、私は解放されました。みなさん。私は自由になったのです。

 

「どうか私を見てください。私はもうゴミ箱をあさって食べたり、路上で寝たりする物乞いではありません。私はイエス・キリストの奇跡のいのちによって生まれ変わり、新しい人に造り変えられたのです。私は神の子どもとなりました。今、みなさんの兄弟となったのです。イエスさまは私を愛しておられます。私が救われました。」

 

その時から彼は、神様との楽しい交わりの中で喜びに満たされて生活しています。彼は霊的に、精神的に、肉体的に癒され、解放されました。

 

これこそ聖書が「救い」と呼んでいる事柄です。この物乞いの男性は、イエス・キリストに出会うことを願ったのでありません。

イエス・キリストが、先に決めておいた計画です。この計画は、次にあなたかも知れません。

 

使徒パウロは「福音は、救いを得させる神の力です。」(ローマ116)お語りになりました。

 

 宇宙を支配される神様によって創造された人間は、孤独を味わい、捨てられ、病気に苦しむ人生を過ごすために生まれたのではありません。人間は、心身ともに健康で、創造者である神様の素晴らし関係を持ちながら、喜びの中で、神様と共に歩むために造られました。

 

愛するみなさん

 

 これが真理です。真理をもって歩む者には、主の祝福が来ます。必ず来ます。

その時は神様がお決めになっていますから、いつ奇跡が私に及ぶか分かりません。ですから、『今、この時を逃したら、一生涯、目が見えないで人生は終わってします。』この命は『霊的いのち』です。
神様は、肉体、たましい、霊の三つを備えて私たちを創造してくださいました。ですから、信じるだけで、何かが、奇跡が起こるのです。

 

祈ります。

愛する天のお父様、今日、この時に礼拝をささげることを出来たことを感謝いたします。今日は、盲人バルテマイの目が癒されてことから、私たちの人生を学びました。確かに、この地上で奇跡があります。私は、主の奇跡で今まで生かされてきました。絶対に癒されないとう病の中で、主は、私を選んでくださり、奇跡的に健康が与えられました。聖霊様を信じかからです。間違いなく、絶対に信じます。私の死に至る病を、癒し、新しいいのちを与えてくださったようにしてくださったように、次はあなたです。私は喜んでいます。奇跡の人生くらい素晴らしい人生はありません。神様は言われました。「私の目には、あなたは高価で尊い、私はあなたを愛している。」感謝します。毎日、感謝を数える人生でありますように。心から願います。今週も神様私たちを守ってください。再び教会でお会い出来ることを信じて、主イエス・キリストの御名によって祝福し祈ります。 アーメン