マタイ6:3134

 

神様の目的は、目に見えない神様の形、天の姿、天の言葉、をこの物質世界に現すことでありました。

私たち人間はこの目的のために創造されました。

 

イエス・キリストがこの地上に来られて、「悔い改めなさい、神の御国が近づいた」と言われました。

 

「天の御国が近づいた」と言うことは、イエス様がこの地上に来られて、天の御国が目に見える形で現されたと言うことです。

 

イエス様が天の御国そのものだからです。

 

天の御国をこの地上で現すことは ⇒ 悔い改める自分が有り続けると言うことです。悔い改めの意味は、180度自分を変えることを指しています。

 

今日はこのことを御言葉から分ち合います。

 

1、    自分の考え方を変える。

2、    今まで考えていた内容を変える。

3、    その考えるプロセスを変える。

 

あなた自身を変えることだと、イエス様はおしゃっています。

今まで考えていた方法を根本的に変えるといことです。

 

知的な考え方の部分を全面的に変えると言う意味です。

 

私を変えることは「心」の部分から始まります。

 

私は、聖学院というミッションスクールに通っていました。

私が中学1年の夏のキャンプが野尻湖でありました。最初の日に、先生方が横一列に並んで、質問会の時がありました。

最初の質問者は私でした。私は「心はどこにあるのですか」と質問しました。

聖書担任の牧師先生が、そうか。「君はその言葉をどこから考えたのだい」「君はイエス様を信じているのですか」私は、「はい、信じています」と答えました。

そうか、イエス様を信じると言っているところがが「心」だよ。と言われたことを覚えています。

 

ピリピ31314

13、兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

14、キリスト・イエスにおいて主に召してくださる神の栄光を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。

 

パウロが青年時代、クリスチャンを迫害し、捕らえて牢獄へ入れていた人物でした。そのパウロが、180度の転換をし、イエス・キリストを伝える伝道者に変えられました。

 

すごい信仰ではありませんか。パウロの目は、心は、意志は、すべての自分は、只、キリストにある神の栄光を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。

 

そして、このよう言葉を語ったのです。

 

「パウロはうしろのものを忘れ、ひたすら前のものに向かって進む」と、考えました。パウロの生涯は、その通りに進んで行きました。

 

何故私たちは、考え方を変えなければいけないのでしょうか。

 

天の御国が近づいたからです。

 

聖霊様があなたを変えます。

自分の力で変わるのではありません。

変わった自分を見出すならば、それは、聖霊様が変えてくださったのです。

 

天のおいては「高慢」はありません。「自己中心」の心もありません。

 

ですから、私たちが天の御国にはいったならば、違った考え方で歩まなければいけません。

私たちは、私たちの「考える方法を変える」のです。

 

神様はどういうお方かをもっと知りたい。という思いを強くすればする程、あなたは祝福されます。

 

神様は祝福する神です。

 

「祝福」の意味は、「幸せ」です。ですから、神様は、幸せの神様だと言うことが出来ます。

 

神様は、この地上でどんなことが起こっても、それに影響されることはありません。

 

ヨハネ146

6、イエスは彼に言われた。私は道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、誰一人父のもとに来ることはありません。

 

ここで大切なことをお話します。

 

『私を通してでなければ、誰一人父のもとへ来ることが出来ません。』

 

誰一人父のもとへ「来ることは」出来ません。

誰一人父のもとへ「行くことは」出来ません。なら、話しは簡単に分かります。

 

自分が悔い改めて、天の御国に行く。それならば、分かりやすいのですが、そのようには書かれていません。

 

新約聖書はギリシャ語です。そのギリシャ語から読みますと。

 

『来る』動詞で、『やって来る』という意味です。

 

どうしてこのような「動詞」が使われたのかと言うと。

 

天の御国に入ることは、自分の意志だけではなく、他者が関わっていて、その他者によって向かう道が「天の御国」だということです。

 

他者とは、聖霊様です。

 

聖霊様があなたを連れて行くというのです。

ですから、御国は、自分の意志、信仰告白がないと、聖霊様は連れていくことが出来ない。のです。

 

神様は道、真理、命です。

 

もっとイエス様を知りたい。もっと。もっと。

毎日が悔い改めです。

昨日は終わりました。

 

過去の自分は捨てます。

 

心の一心によってです。

 

2、今まで考えていた内容を変える。

 

創造主なる神様は、この全ての被造物を治めておられます。

この物質世界の全ては主が創造されました。

 

創造主なる神様は人格をもっておられます。

そして、ご自身を紹介しています。

 

出エジプト記331823

18、すると、モーセは言った。どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

19、主は仰せられた。私自身、私のあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。私は、恵もうと思うものを恵み、憐れもうと思う者を憐れもう。

20、また仰せられた。「あなたは私の顔を見ることは出来ない。人は私を見て、なお生きていることは出来ないからである。」

21、また主は仰せられた。「見よ。私のかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。

22、私の栄光が通り過ぎる時には、私はあなたの岩の裂け目に入れ、私が通り過ぎるまで、この手であなたを覆っておこう。

23、私が手をのけたら、あなたは私の後ろを見るであろうが、私の顔は決して見られない。

 

18、どうか、あなたの栄光を私に見せてください。

 

モーセは神様の顔を見たいと望みました。

しかし、神様は、私の顔を見ることは出来ない。もし、見たならば人は生きていることは出来ない。とモーセに答えました。

 

21、また主は仰せられた。「見よ。私のかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。

22、私の栄光が通り過ぎる時には、私はあなたを岩の裂け目に入れ、私が通り過ぎるまで、この手であなたを覆っている。

 

そうして、神様が通り過ぎた時に、モーセは岩の裂け目から、神様の後ろ姿を見ました。

 

モーセは、確かに神様の後ろ姿を見ました。

その後ろ姿を見た瞬間、モーセは、神様の臨在の中で、全てが分かりました

神様が知らせたからです。

 

旧約聖書お最初は創世記、次に、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記

と続いています。

この五つの書簡はモーセが書きました。

 

神様は、モーセに自らの後ろ姿を見せて、モーセに知らせたのです。

聖霊様の臨在の中で、すっぽりと入れられ、神様がなさった全てを知りました

 

 

モーセは臨在の中でモーセは書いたのです。

 

創世記1:1「初めに神は天と地お創造された。モーセは即座に分かりました。」

 

モーセは、神様お栄光を見たいと言った時に、神様の臨在を求めたのです。

 

愛する兄弟姉妹

 

今まで考えていた内容を変えるのです。

 

今までは、肉的な生き方をして来ました

これからは、霊的生き方をするのです。

 

Ⅱテモテ316

16、聖書は全て、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

 

御言葉が臨在をもたらします。

ですから、聖書を読んでください。今は分からなくても、礼拝の説教の中で段々と分かって来ます。

 

礼拝が人を変えるのです。

いつも言います。

礼拝がすべてです。

礼拝の中で、私の過去を捨て去り、新しい聖霊様の世界に入っていきます。

 

必ずあなたは、心の変化に気が付きます。

 

3番目、考えるプロセスを変える。

 

モーセが求めたように、「私は、あなたを知りたいのです。あなたの栄光を見たいのです。」と強烈に求めました。その時に、モーセは神様のわざの全てが分かりました。

あなたも、自分の生き方の一番に神様を置くことです。

 

このことは、父なる神様、子なるイエス様、聖霊様の三者は一つです。

このことを三位一体と言います。

 

Ⅰテモテ11215

12、私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝を捧げています。何故なら、キリストは、私をこの努め任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

13、私は以前は、神を汚す者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていない時に知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

14、私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

15、「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」という言葉は、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 

パウロの心の中は、自らがクリスチャンを迫害した者であることを、たびたび語っています。

 

そして、私を強くしてくださる主キリスト・イエス感謝を捧げています。と語ります。

14、私たち主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ち溢れるようになりました。

 

パウロは「自分は罪人の頭です」と言います。

 

では、私たちはどうでしょう。自らを罪人の頭と言えますか。

 

神様の顔を見たならば、人は生きていることが出来ない。と主は言われました。

 

ですから、神様は、そのためにイエス様を地上に遣わし、あなたの罪を取り扱いました。

十字架はあなたの罪の贖いです。あなたは、十字架の前で「許すことが出来ない人を許すのです。十字架は和解の福音です。

 

イエス様はこの贖いのみわざを完成されて、聖霊様を遣わしました。聖霊様が臨在の中で、あなたの命を取り扱いしておられるのです。

 

ドイツにバジェリア・シュリンクという女性がいました。プロテスタントの母と呼ばれていました。彼女は、アドルフ・ヒットラーがドイツを支配し、ユダヤ人を抹殺していることを自分の目で見て、パルチザンの中に入って行きました。彼女は、ドイツ人として、ドイツ政府と戦いました。

 

戦争が終わってから、同じ思いで戦っていた女性たちと「マリア姉妹会」という群れをつくりました。彼女が書いた多くの著書の中に、「わが心の喜び」という、小冊子は、毎日読んで、1年間を。

その中から幾つかを紹介します。

 

「神は、罪人に悔い改める機会を与えてくださることを忘れてはいけません。それによってあなたは自分の罪の中に滅びず、また、神と人にとって重荷とはなりません。心から悔い改めて、以前のやりかたをはっきりと背を向けるなら、あなたは人々に喜びをもたらす者となれるのです。何故なら、罪人が悔い改めるなら、喜びが天にあるからです。」

 

「自我の思いにとらわれてはなりません。あなたの自我の背後にあなたを陥れようと狙っているサタンがひそんでいるからです。むしろ、イエス・キリスト、その贖いと勝利にあなたの思いを向けなさい。そうすれば、イエスが絶望のどん底からあなたを引き上げ、ご自身の心に受け入れてくださるでしょう。」

 

 

 

詩篇42:1~2

 

主を慕い求める