2016年3月13日 礼拝メセージ
復活のイエス様、知恵ある者 ヨハネ20:1~23
間もなく教会の暦では、イエス様がよみがえられたことを覚える「受難週」が訪れます。世界中の教会が同じ歩みをしています。
イエス様はよみがえりました。
その体は、手で触ることは許されない、その体は以前の体ではなく、驚くべき体でありました。
肉体を持った体でありながら、鍵のかかった戸を通り抜ける体であり、一つの場所から他の場所へと移動することが出来、最後は空中高く浮き上がり、天に帰りました。
お墓の中には丁寧にたたんだ亜麻布が置かれ、イエス様は墓から出て来られました。
亜麻布が置いてあり、イエス様は衣を着た姿で、マグダラのマリヤに、また弟子たちに現れました。
その衣は新しい栄光の衣を着ていました。これは『霊的象徴的な意味が込められています。
復活の出来事は、『神様が何もない世界から、何かを創造するお方であることを知らせています。
神様は「無から有を造り出すお方」です。
復活は「神様の超自然的な御業が現された出来事」です。
神様には「不可能ということは何一つない」と言うことです。
人間が死ぬとどのようになっていくのでしょうか。腐敗していきます。しかし、イエス様の体は腐敗が及ばない、腐敗すると云う人間の限界を超え、神の子としての体に戻されたということです。イエス様は、人間のあらゆる常識的考えを超えて、新しい創造の御業の中におられるということなのです。
イエス様の復活は、
新しい創造が、古いものの上に臨み、
新しい世が始まり、
新しい時代が始まったということの「神の宣言」です。
Ⅰコリント15:3~8
3、私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、
4、また、葬られたこと、また、聖霊に従って三日目によみがえられたこと、
5、また、ケパに現れ、それから12弟子に現れたことです。
6、その後、キリストは5百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その時の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者たちも幾らかいます。
7、その後、キリストはヤコブに現れ、それに使徒たち全部に現れました。
8、そして、最後に月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくだいました。
アーメン
本文に戻ります。
ヨハネ20:1~10、11~18
1、さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2、それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もう一人の弟子のところに来て、言った。「誰かが墓から主を取っていきました。主をどこに置いたのか、私には分かりません。
3、そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て来て、墓のほうへ走った。
4、二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロより速かったので、先に墓に着いた。
5、それで、体をかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見た。中には入らなかった。
6、シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、
7、イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布と一緒にはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
8、その時、先に墓に着いたもう一人の弟子もはいって来た。そして、見て信じた。
9、彼らは、イエスが死人の中から、よみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。
10、それで、弟子たちはまた自分の所に帰って行った。
ここまでが弟子の姿が描かれています。
11、しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして泣きながら、体をかがめて墓の中をのぞきこんだ。
12、すると、二人の御使いが、イエスの体が置かれていた場所に一人は頭のところに、一人は足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えた。
13、彼らは彼女に言った。「何故泣いているのですか。」彼女に言った。彼女は言った。誰かが私の主を取っていきました。どこに置いたのか、私には分からないのです。
14、彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っているのを見た。しかし、彼女にはイエスであることが分からなかった。
15、イエスは彼女に言われた。なぜ泣いているのですか。誰を捜しているのですか。彼女は、それを園の管理人だと思って言った。あなたが運んだのでしたら、どこへ置いたか言ってください。そうすれば私が引き取ります。
16、イエスは彼女に言われた。マリヤ。彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ」(すなわち、先生)」とイエスに言った。
17、イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。私はまだ父のもとに上っていないからです。兄弟たちのところに行って、彼らに、私の父またあなたがたの父、私の神また、あなたがたの神の元に上ると告げなさい。18、マグダラのマリヤは行って、私は主にお目にかかりました。と言い。また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。
17節はこうです。
「すがりついてはいけない。マリヤ。私は人の子イエスから、神の子イエスに戻ったのだ。私は父のもとへ帰る。全てが変わった。罪も死も、恐れも、憎しみもない。さあ、早く弟子たちに告げなさい。
ここでは、マグダラのマリヤが登場しています。
このマリヤは、ルカ8章によれば、イエス様に「7つの悪霊につかれた女性で、イエス様に救われた女性です。
彼女は、悪霊の所有物なっていました。イエス様によって、理性も節度も健康も取り戻して、イエス様と歩みを共にしていて、最後までイエス様に仕えた女性でした。マグダラのマリヤは、イエス様が十字架上で死ぬ瞬間まで、また、埋葬の時も、また、最初によみがえったイエス様とお会いしたのも、このマリヤでありました。
ヨハネに戻ります。
19、その日、すなわち週の初めの日の夕方の事である。弟子たちいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸を閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20、こう言ってイエスは、その手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
アーメン
弟子たちは、戸を閉めて、鍵をかけて閉じこもっていました。
何故、ここまでしたのでしょうか。
ユダヤ人を恐れたからです。
弟子たちは、イエス様の遺体がなくなったとしたら、自分たちの仕業だと疑われるに違いない。どんな仕打ちをされるか分からない。と恐れていました。
イエス様を殺したあと、今度は自分たちが襲われるのではないかと、恐れは半端ではありませんでした。
ユダヤ人たちの反撃のすごさを知り尽くしていましかたからですね。
ですから、鍵までかけて閉じこもって、これからのことを話し合っていたに違いありません。
しかし、女性たちがイエス様とお会いしたと伝えられると、さあ、どうすればよいのかと弟子たちは考えたのです。どう理解すればいいのか。
イエス様ご自身が死んでよみがえることを何度も知らされていましたが、忘れたのか、念頭になかったのか、あるいは、恐れのほうが強くて考えの外に行ってしまったのか。
弟子たちの心は混乱していたことは間違いありません。
弟子たちのもう一つの思いは、
自分たちは、イエス様に人生をかけていたのに死んでしまった。
失望、落胆を超えて、疑いがこみ上げてきたのでしょうか。
⇒ 神はイエスを助けなかったではないか。
三年間もイエス様について行ったのに「不安」が勝っていました。
そういう状況の中に、主が入って来られました。
栄光の姿をもって入って来てくださいました。
そして、主が語った言葉は、『平安があるように。』でした。
弟子たちは狂喜しました!
主は生きておられた!
主はここにおられる!
この場所には、弟子たちも、イエス様について行った者たちも、女性たちもみないたのです。
使徒1:4
4、彼らと一緒にいる時、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。
しばらく箴言を学びたいとみなさんが言われましたから、ここから箴言に移ります。
箴言9:6
6、わきまえのないことを捨てて生きなさい。悟りのある道を、まっすぐに歩みなさい。
この御言葉を良く心に留めてください。
私たちの人生は『真実な人生』でありたいのです。
うそがなく、神様の御言葉を土台とした人生です。
私たちは「期待する人生」をつかむことに疲れてはいけません。
「信仰は期待感をもって行動することです。」
人生を歩む道は、わきまえのないことを捨てて生きる」
どのような状況が来ても、どのような環境に置かれても、『私はかならずここから脱出出来る』という信仰です。
パウロも語りました。
Ⅰコリント10:13
あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実なお方ですから、あなたがたを耐えることが出来ないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることが出来るように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
箴言1:2
2、これは、知恵と訓戒とを学び、
悟りの言葉を理解することでためであり、
聖書が知恵を云うことには、ここで語られた言葉が中心です。
「知恵」はとは ⇒「単なる人間的な知識とか、頭脳で考えることではなく、
『神の御心にかなった生活を送らせるための知恵』です。
『悟りの言葉』とは、⇒ 人はただ聖書を知的に知り、知識として理解するのではなく、神の御心を実践することである。という意味。
「思慮ある者」とは、善悪を区別し、今何をすることが神の御心なのかを考えて生きる。神様の愛を実践する者となる。正しく、神を信じる者として生きる。
と云うことです。
箴言1:7
7、主を恐れることは知識のはじめである。
箴言の中心メッセージです。
そして、私たちの信仰の中心メッセ―ジ。
箴言中心は、この御言葉です。
新改訳聖書では 「恐れ」
新共同訳では「畏れ」
文語訳では、恐れ」
と訳されています。
広辞苑では、
恐れとは、「怖がる、びくびくする」と一般的にはそう理解するでしょう。しかし、ほかの意味もあります。 ⇒「かしこまる、慎む」
主よ、私はあなたの御前で、只、かしこみます。慎みます。
という日本語の意味があります。
畏れるとは、「畏れかしこむ、畏れ慎む。畏れで心がすくむ」
「かしこむ」は、⇒ 畏れ慎むという意味もある。
「恐れると畏れる」は、同じ意味です。
どちらを取っても、同じ意味合いです。
神様と接する時に、恐怖はありません。
ですから、神様の御前では、かしこまり、慎む、それくらいに神様の前に出る時は、このような思いを持っていなければなりません。
このように理解すれば良いです。
それに「知識」が加わります。
知識は、単なる、世で得た知識ではないことが分かりせん。
⇒ 神様の御心を慕い求めていく歩み。を意味しています。
ですから、「主を恐れる=畏れることは知識のはじめである。」とは、神様の前で畏れ慎しむことです。
神様の御心を畏れかしこみ、慕いを求める歩み、人生。
神さまの見前で、私は只主あるのみ。私はあなたなくして生きることが出来ません。ということです。
3:21~26
21、わが子よ。すぐれた知性と思慮をよく見張り、
これを見失うな。
22、それらは、あなたのたましいの命となり、
あなたの首のうるわしさとなる。
23、こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、
あなたの足はつまずかない。
24、あなたが横たわる時、あなたは恐れない。
休むとき、眠りは、心地よい。
25、にわかに起こる恐怖におびえるな。
悪者どもが襲いかかってもおびえるな。
26、主があなたのわきにおられ、
あなたの足がわなにかからないように、
守ってくださるからだ。
24では、恐れない。とありますね。
25では、恐怖におびえるな。
分かりますね。
創造主は「愛なるお方」です。
金曜に平塚に行って来ました。
ミラクル集会に賛美を収録するためでした。
ピアニストの菊地さんは、二人の子どもがいますが、以前から、将来の希望は二人とも医者と言っていました。そこで、どうして、医者になろうと思ったのと聞きました。
小学5年の誉史亜君は、「世界中で困っている人に、病気で苦しんでいる人たちに、世界を回って旅をして助けたい。」と言っていました。
小学2年の加励武君は、僕は 何回も救急車で病院を行ったから、今度は人を助ける医者になりたい。と。
そうか、素晴らしいね。
誉史亜君に「国境なき医師団」と云う世界中の医者が集まって、世界中の人たちを助けているんだよ。
君のお母さんは、ミャンマーのカチン族だね。カチンはいま大変だよ。貧乏で、食べることも大変で、病気になったら医者に診てもらうことが出来ないのだよ。だから、英語とカチン語を話せるようになるといい、そして、もう一つ外国語を話せる医者になってほしい。石川先生も応援するよ。と話して、祈りました。彼らと会うと、必ず頭に手を置いて祈ります。従順ですよ。
神様はあなたを召しておられます。
あなたを召し出そうとしておられます。
この召しに期待するのが、クリスチャンです。
どういうふうに召しだすのかは、神様しか分かりませんが、いつも、聞く耳を持っていましょう。
牧師がこれをしてくださいということもあるでしょう。先週話しましたが、教会の頭はイエス様。教会を目で見える形で導くのは牧師です。
主が、新しい衣を着たように、私たちも「新しい衣を着ます」
新しい衣を着ることとは、
主を恐れる=畏れることです。
神様の定めてくださったことは守りましょう。
困難が来ても、恐怖に襲われても、主は守ってくださいます。
必ず、信仰の繁栄が来ます。
必ず、心の清さが来ます。
そして、物質的繁栄が来ます。
今、物質的繁栄が来なくも、必ず主は満たしてくださると信じるならば、主の時の中でそうなります。
『私はあなたを孤児とはしない。』とイエス様は言われました。
今、教会は少ないですが、必ず、繁栄します。
牧師は信じて、疑いません。
それゆえに経済が大変であっても疑いません。まったく疑いません。
牧師の辞書には「疑うという言葉はありません。」
悪魔は、あなたを疑がわせますよ。
自分の心に中に、疑う思いが来たならば、それは悪魔悪霊どもです。
イエスの御名によって、この思いよ出てゆけ!
と宣言してください。
私たちは、目を覚ましています。
私たちは、霊の目が開かれることを期待します。
牧師は、みなさんが守られるように祈っています。
思慮に欠けた人生に未来はありません。
間違った行動や態度に未来はありません。
お互いに、神様が定める人生に向かって歩みます。
祈ります。
私たちを愛し、守っておられる父なる神様、あなたの御名を心から誉めたたえます。今日も、新しい自分になり、信仰が増し加わわるために、主の御前で礼拝を捧げています。礼拝がすべてのすべてです。今日はイエス様、あなたがよみがえられたことを特に覚える時を迎えています。いまも生きておられるイエス様は再びこの地に来られることを堅く信じています。その時を待っています。聖霊様、ここ清水の地にあなたの油が注がれますように。清水のすべての教会にリバイバルの油を注いでください。ここ清水は牧師たちが本当に仲が良いことを感謝しています。教会が閉鎖的になるのではなく、主がこの地を祝福してくださっていますことを心からの感謝を申し上げます。この一週間、御言葉と祈りの中で主よ、あなたを礼拝します。守ってください。この祈りを主イエスキリストの御名によって祝福して祈ります。アーメン