2016年11月27日 礼拝メッセージ
真のいのち ヨハネ11:25
神さまは、超自然的に働かれます。
その超自然的な方法でみなさんに臨みます。
超自然的力は、私たち人間には、驚くべき出来事として受け取り、信じられない出来事として臨みます。
本当に信じられない方法です。
それは、神さまは生きていることの証拠です。
ですから、キリスト教は宗教ではありません。
私たちが持っている武器は何でしょうか。
『神さまと一致することを』目指して歩むと云うことです。
「目指すのです」
「求めるのです」
正確には「目指し続ける」「求め続ける」です。
みなさん良く聞いてください。
『超自然的みわざは真のいのちです。』
このいのちは、誰でも受け取ることが出来るものです。
私たち人間の最も大切ないのちを大事にして下さい。
今日の御言葉です。
ヨハネ11:25
25、私は、よみがえりです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。」
イエスさまは十字架上の死から、よみがえりました。
ここに、真のいのちがあります。
そのいのちは永遠の命です。
イエスさまが十字架上での死は、私たち全ての者が、
死んでも生きるためだったのです。
肉体が死ぬことは、誰もが同じです。しかし、霊的に死んでいることは、
悪魔悪霊どもの中にはいりこまれて、人格を破壊されます。
イエスさまは、霊的に生きることを「ゆび」指しています。
霊的いのちです。
霊的いのちは、聖霊さまに従順するいのちです。
ヨハネ5:24
24、まことに、まことに、あなたがたに告げます。私のことばを聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きにあうことがなく、死からいのちに移ったのです。
ヨハネ6:35
35、イエスは言われた。『私がいのちのパンです』私に来る者は決して飢えることがありません。
私はアルゼンチンへ2週間行って来ました。それは、一昨年の11月です。祈っていると、アルゼンチンへ行きなさい。ということばでした。私はびっくりして、主よ。それは出来ません。その費用をどこから出て来るのですか。一週間同じ問答をしていましたが、神さまは私に、何かを用意しているのかと思い、主よ。行きますと答えたのです。それ以来その声はなくなりました。一体どうやって費用作るのか、信仰が試されている気がしました。不思議が起こり、費用が出来たのです。ハレルヤ!
最初の日曜の礼拝は、日系日本人を牧会している、与那嶺ルイス師の教会でした。一人一品を用意して下さいました。おはぎ、のり巻き、等、日本の料理で接待されて、心からの歓迎をして下さいました。感謝でした!
アルゼンチンのリバイバルを担っているクラウディオ・フレーソン師がおられます。先生の教会は聖霊さまの香りでいっぱいでした。聖霊さまの香りです。次々といやしの御業が現れていました。教会は3千人収容出来るそうですが、3万人のクリスチャンで、礼拝を土曜も日曜も5回やるそうです。すごい体力が必要です。
私たちの休憩の日、フレーソン先生のCDや本等を販売しているブックストアーに行きました。するとドアを開けた途端、聖霊さまの香りが充満していたのです。懐かしい香りです。私は、何もしないでこの香りの中にいたいと思いました。
エペソ5:2
2、また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神への供え物とし、香ばしい香りをお捧げになりました。
『イエスさまは、香ばしい香りをお捧げになりました。』
『霊的香りは、イエスさまご自身です。』
さらに、ブックストアーの方が気を使ってくださり、私たちのために礼拝堂を開けて下さり、中に入ることが出来ました。私は、すぐに講壇を目指しました。すると講壇の上に立った時、すごい重力と云うか、磁石のように、足が中々動きません。一歩が大変、初めての体験でした。本当によいしょと足を運び、よいしょと進んで行くそういうものです。聖霊さまの香りは講壇に行くほどに濃厚になっていきました。あの重い重力の中ですたすたと歩いている先生は本当にすごいことだと思わされたのです。
私は、とっさに気が付きました。
神さまの臨在はヘブル語で「シュキナー」と呼ばれます。シュキナーとは、人間の五感で理解出来る神さまの臨在です。
栄光とは、ヘブル語で「ガボド」で「重さ」という意味です。
神さまの栄光と臨在は重いのです。立っていられなくいなります。どうして立っていられないのでしょうか。神さまの臨在は重いからです。やがて、教会に日本にリバイバルが起きる時、教会は香りでいっぱいになります。楽しみにして待ちましょう。祈って待ちましょう。
フレーソン先生がアナコンディア先生の伝道集会でメッセージをすることはまれだと聞きました。しかし、今回、私たちがアルゼンチンのフレーソン先生の教会で説教を聞き、再び、アナコンディア先生の伝道集会に来て、説教をすることになっていたのです。最果ての地から来た私たちのために用意されていたわけではありません。本当にめったにあることではないことを知らされました。先生がステージで説教している時、先生が語りはじめた時、自分の過去の経験をも語りました。開拓の時代、自分の教会がおばあちゃん3人しかいませんでした。礼拝は妻のベティーとベティーの両親だけでした。ある時はベティーがいない時、私一人でした。会堂が与えられました。おんぼろの誰もが住むことを嫌うほど、みすぼらしい家でした。お金がないのでそうしました。家には、お風呂場がありましたがお湯が出ず。数年間はお湯を沸かして、風呂桶に入れて入浴をしたこと、使える部屋は一つしかなく、日曜は会堂として使い、椅子を並べて、礼拝をしました。その時、私の心が最も痛んだことは、羊のいない羊飼い、信徒のいない牧師であることでした。自分にまだプライドがあり、失望と挫折を感じていました。自分を鬼下していました。
みなさん聞いてください。フレーソン先生はさらに語りました。
人生には神さまの計画や目的があって、神さまは私たちに、必要な課題を与えることがあります。あの挫折、敗北感は、自分の力でやることの虚しさを学ぶ期間だったのです。自分の能力や神学教育だけでは不充分であることを神さまは私に示したのです。この世が必要としているものは神学ではなく、『いのち』なのです。
私は先生の本を読んでいましたから、このことを知っていましたが。あの会場のステージに上がって、最果ての地から日本人が来られていることを知らされていましたから、ご自分の経験を語り、励まして下さっていることがすぐに分かりました。涙が流れる思いで聞いていました。ベティー先生は娘さんのからだに抱き着いて泣きながら祈っていました。この旅を計画して下さった。飯能キリスト教会の中澤イサク先生が無線機で通訳して、イヤホーンで私たちが聞くように設定して下さいました。
私は思いました。神学だけでは不充分で、最も大切で重要なことは『いのち』である。
その命は神さまの愛の中にあります。私はこの時悟りが与えられました。
私は、先生のことばの意味はすぐに分かります。私も同じ体験をし、いまも体験しているからです。教会に人が去って行く時、私は、それは私の責任だと京子先生に話しましていました。説教がへたで、どもりで、なかなかみなさんの心に響くことばと話術が出来ない、そういう自分をいつも見つめていました。いつも自己批判していました。
しかし私は、アルゼンチンへ行って、自分で頑張ることをやめなければならないことを知らされたのです。聖霊さまに一切を任せるという真理です。もちろん、聖霊さまに従順しながら、努力と忍耐は忘れてはならないことは良く分かっています。
全てはイエスさまのように生きること。
聖霊さまのご臨在の中で生きること。
みなさんは、神さまから愛されています。愛は自分が生み出すのではありません。神さまが地上の人間の罪を解決されました。イエスさまを地上に遣わし、私たち全ての人々の罪の身代わりとなって十字架にお掛りになり、三日目によみがえり、イエスさまを信じると決心したあらゆる人々が罪を赦され、神の御国で生きれるようにして下さいました。
聖書は語ります。
Ⅰヨハネ3:16
16、キリストは、わたしたちのためにいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のためにいのちを捨てるべきです。
最初の訳文、「イエスさまが命をお捨てになりました。」
最後の訳文、「兄弟のためにいのちを捨てるべきです。」
「捨てる」ということばは分かりずらいかも知れません。
「キリストは私たちのために命を差し出して下さいました。
「私たちも、兄弟たちのためにいのちを差し出さなければなりません。」
みなさんは、自分を強い人間と思いますか。
みな弱いのです。しかし、聖書は語ります。「弱い時に強いのです。」
あなたはイエスさまを知りました。ですから、今生きることに困難を覚えている方々に、神さまの愛を差し出すのです。そういう者でありたいと思います。
教会には、イエスさまがおられます。聖霊さまがおられます。悪魔悪霊どもは、教会には決して入れません。多くの方々があそこの教会へ行けば、心が楽になると言われる教会を私は目指します。
超自然的教会は、イエスさまに預けた教会です。イエスさまが全てを統治します。
超自然的教会は神さまの愛で満ちた教会です。
神さまのいのちが溢れている教会です。
いやしがあり、預言がある。これは超自然のみわざです。
使徒の働きの時代は、クリスチャンを『道の者』呼ばれていました。とても良い言葉だと思います。
この道の者は、何かが違っていたのです。世の人とはかなり違いがあったのです。
新約聖書の半分の手紙は、パウロ先生が書きました。パウロ先生は、道の者を迫害し、根絶やしにしようと考えていた人物でした。迫害されればされる程、道の者は増えて行くと云うことを知らなかったのでしょうか。迫害をする時代は、サウロと云う名前でした。
そのサウロに突然の出来事が起こったのです。神さまの超自然的な力が臨んだのです。
サウロにとっては、「道の者の生き方は理解出来なかったのです。」
神さまの超自然の働きなど、まったく理解出来ませんでした。
その時、不思議な出来事が起きました。
使徒の働き9:1~9
1 、さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
2、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムへ引いて来るためであった。
3、ところが、道を進んで行って、ダマスコに行って、ダマスコの近くまで来た時、突然、天から光が彼を巡り照らした。
4、彼は地に倒れて、『サウロ。サウロ。何故私を迫害するのか。』という声を聞いた。
5、彼が、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うとお答えあった。『私は、あなたが迫害しているイエスである。
6、立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。
7、同行していた人たちは、「声は聞こえても、誰もなにので、物も言えず立っていた。
8、サウロは地面から立ち上がったが、目が開いていても何も見えなかった。
そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、またモ飲み食いもしなかった。
パウロの人生は変えられました。
奇跡が起きたのです。
パウロも超自然的な体験をしました。
この御言葉を読みますと、神さまの計画があることを知ることが出来ます。
神さまは同じように、あなたに計画を持っておられます。あなたが、これからどのように歩んでほしいのかという計画です。
みなさんは今、パウロに臨み、語ったと同じイエスさまの中にいます。同じイエスさまです。
パウロを変えたイエスさまがここにおられます。
超自然的力でパウロを変えたイエスさまが、あなたを変えます。
この時、クリスチャンは『道の者』と呼ばれていました。
この道の者は、何かが違っていたのです。
世の人とはかなり違いがあったのです。
ここに真のいのちがあることを伝えるということです。
9:10~16
すると、イエスさまは、アナ二ヤという神さまに従順していた器に、サウロが
『まっすぐ』という街路に行きなさい。そして祈って上げなさいという言葉がありました。アナ二ヤは主よ。どうしてですか、彼は私たちにどんなに悪いことをしたではありませんか。どうしてですか。と答えました。すると主は『行きなさい。あの人は私の名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、私の運びの器です。
彼が、私の名のために、どんなに苦しまなければならないかを、私は彼に示すつもりです。と言われました。
17、そこで、アナ二ヤは出かけて行って、その家にはいり、『兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現れるなったイエスが、私を遣われました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。
18、するとただちに、サウロの目からうろこのように物がおちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
19、食事をして元気づいて、サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
サウロがパウロに変えられました。
神さまの計画は、あなたを建て上げるためにあります。
聖霊さまが、あなたを、『新しい命』を与えられます。
エレミヤ31:4
4、おとめイスラエルよ。
私は再びあなたを立て直し、
再びあなたをタンバリンで身を飾り、
喜び笑う者たちの輪に出て行こう。
新しくされると、喜びがやって来ます。
本当です。
神さまの計画があります。
人生で疲れきる時がありますが、それで終わりではありません。
神さまの速度は、私たちは知ることが出来ません。
霊の速度は私の思いとは違います。
ある時は「瞬間」に。またある人には、「時間をかけます」
その時間をどう過ごすのか。それにかかっています。
みなさん、良く知ってください。
人間を変えるのは、礼拝です。イエスさまを信じた者、また、求めている者も、礼拝で「真の命」を与えられます。
真の礼拝は、あなたが真のいのちをつかむのです。礼拝は儀式ではありません。形式ではありません。
礼拝の中で、あなたなの人格が変えられていきます。
そして、礼拝の中で「悔い改め」が起こります。
最後に一言
私たちは、真のいのちである神さまに愛されています。
自分に注目しないで、イエスさまに注目してください。
自分の事情を横に置いて、すべての心を注いでイエスさまを見上げてください。
自分の中には、さまざまな傷があります。聖霊さまがその傷をいやします。
聖霊さまがあなたの心をいやします。
聖霊さまの超自然の力があなたをいやします。心配しないでください。
悪魔悪霊どもがイエスさまに、自分の人生を生きると決心した者を破壊しようちと狙われます。しかし、悪魔悪霊どもが絶対にはいれない言葉があります。
エペソ6:14~18まで簡略します。
腰には真理の帯を締め、
胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音を履き、
信仰の大盾を取り、
御霊の剣を持ち、
救いのかぶとをかぶり、
イエスの御名によって私の体を覆う。
毎日朝に、この御言葉を宣言してください。
あなたは守られます。
祈ります
私たちを愛し、私たちを守って下さる父なる神さま、あなたの御名を讃えます。
今日、再び教会で一同が集められ、真のいのちとは何かを学びました。私たちは、この真のいのちをつかみ、人生を歩む者とされるように祈ります。しもべがアルゼンチンへ行くことが出来たことを感謝申し上げます。アルゼンチンは天の窓が開かれ、リバイバルが長く保たれていることをこの目で耳で分かりました。日本の国の天の窓を開いて下さい。日本の国が神の国になりますように、切に祈ります。これからの一週間が始まります。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音を履き、信仰の大盾を取り、御霊の剣を持ち、救いのかぶとをかぶり、イエスさまの御名によってこのからだを覆う。毎日この祈りをささげて今日の1日を歩めるように切に祈り。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祝福し祈ります。 アーメン