2016年10月23日  礼拝メッセージ

   心を尽くして神と人を愛する  マタイ22:37~39

 

人と関わるということは、とても素晴らしいものです。私たちの人生において、

人間関係は最も重要な部分を占めています。両親との関係、夫婦関係、友人関係、

どれをとっても大切なのです。

 

キリスト教とは、と質問されると、時々困ってしまう時があります。

キススト教は宗教ではありません。
ここをしっかりと覚えてください。
正しい答えは、『生きている神との関係』です

 

聖書で教える関係は「天地を創造し、宇宙万物を創造された神です。」

それは、人類のあらゆる関係に関わる最高の関係を語っています。

 

私たちは、夫婦関係の愛の中からこの地上に誕生されました。しかし

夫婦の関係の前に、すべてをご存じの、私を創造し、あなたを創造し、

全宇宙を創造したお方の計画の中でみなさんは生まれました。

 

 

イエス・キリストは愛する内容を教えました

 

第一番目、心を尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
第二番目、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

 

最も大切なことは、神様を愛することである。とイエスさまは語りました。

そして、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。

 

これ以上の愛はありません。

 

ではイエスさまが必要なのでしょうか。

 

みなさんも私も、神様との関係の中で生きるように創造されたました。

神さまとの関係を見つけるまで、私たちの人生の中でいつも何かが欠けた状態の中で生きていることになります。

 

その結果、私たちは、心の中に埋められない隙間を感じることになります。

あるミュージシャンは、ロック歌手として有名になりました。人々から、きゃーきゃーと言われながら、人気の中で生きていました。行く所どこでも人がついてきました。しかし、彼はある時、「心の奥底にむなしさ」があることことに気が付きました。彼は、ミュージシャンとして最高の地位まで駆け上がって行きましたが、ある日から、彼はミュージシャンをやめました。人々はどうしてと驚きましたが、彼の心の中にイエス・キリストさまと出会ったのです。その瞬間、いままであった「虚しさ」は消えたのです。彼のファンもいつの間にいなくなりましたが、彼の人生は変えられて、クリスチャンになりました。それから、彼は、教会に通い、長い空白期間から、教会音楽の道を歩み始めたのです。そして神学校へ学び、牧師になりました。日本の教会のどこかで彼に歌って下さいと招ねかれると喜んで行きました。謝礼も、ロック歌手だった頃のお金とは程遠いい謝礼でした。彼の心はお金ではない、イエスさまを賛美したことに生きる充実感を得たのです。彼はいま、日本にワーシップというのですが、日本の教会に新しい賛美の分野を開拓しました。

 

また、ある僧侶が、僧侶の道を歩み始めましたが、仏教を学べば学ぶ程、大きな矛盾がそこにあることを知りました。そして、自分自身の無力さだけが見えて、苦しみました。不思議なことに教会へ行く機会が与えられました。彼は、イエスさまの前で、自分が罪人であることに深い苦しみを経験しました。神さま、私はあなたの前で罪があることに気が付きました。これをどのような言葉で告白したら良いでしょうしょう。「するとその時、何かの力が自分に湧き上がってきて、ワ~と」涙がこみあげて来て、体もすべての力が抜けて行ったと先生は語りました。僧侶を辞めて、先生は神学校へ行き、今、牧師です。

 

すごいと思いません。

 

私は、この先生を親しくさせて頂いています。

 

人間は、努力しても、努力しても、空しい思いは消えることがありません。

 

私は、空しさ」の中で、気を失うほどの経験をしました。

沢山の失敗をしました。

沢山の方々に傷を与えたと思います。

思いだすと、すぐ「謝罪」をします。

私は年を取ってきましたので、天に帰る時に備ています。

ですから、思い出したなら、謝罪をしています。

 

謝罪を聖書では「悔い改め」と呼びます。

 

私は強い強い「飢え渇き」を持っています。

日本の大地に聖霊さまが降り立ち、教会に人々溢れ、大きな群れとなること、

また、私の教会も同じ恵みに預かることです。

 

ヨハネ635

35、イエスは言われた。「私がいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、

私を信じる者はどんな時にも、決して渇く」ことがありません。

 

イエスさまは、私がいのちのパンである。と言われました。

そして、私に来る者は決して飢えることがないとも言われました。

さらに、私を信じる者は、決して飢えることがない。とも言われました。

 

ここで「飢え渇く」という言葉に注目したいと思います。

 

飢え渇くとは、「肉的飢え渇き、霊的飢え渇き」です。

 

第一に、生きる糧がなければ生きれません。

私たちは「肉的生存」と、「霊的生存」の二つがあることを理解してください 

 

それは、真の神、絶対者なる神が、私が創造それたという事実です。

 

イエスさまが皆さんに語っています。

聖書では、私がここに生を受けた時の前に、神は私をすでに知って

 

私が生きるのは、何のために生きるのか。ということです。

 

 

私が生きる過程で、空しさ、を体験します。その内容はそれぞれ違う内容ですが、

何を持っても心の隙間を埋めることが出来ませんが、イエスさまとの出会いがそこにはあります。

 

誰でも、一度は「自分に語りかけた」ことがあると思います。

 

「一体、自分は何をやっているのだろう?」
「人生の目的はあるのだろうか?」

 

みなさん良く知ってほしいのです。

「私たちは、意味がなければ、生きていけない。」のです。
本当です。
意味がなければ、生きていけません。

 

その解決は簡単です。
イエス・キリストさまを信ずる者になることです。
 

 

ここから、イエスさまの誕生に目を向けたいと思います。

 

イエスさまは、神の子としてこの地上にお生まれになりました。

父なる神さまが全ての人々の救いのために、天から遣わされました。

 

その生涯は「死ぬために生まれた。」と言うのです。
 
私たちの心の中には、罪があります。
 

では罪とは何でしょう。

まことの神を受け入れないということです。

自己中心です。

人を憎むこと。

人を批判すること。

人をさげすむこと。

自我に生きる。

悪い悪い思い。

盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意。

 

ヤコブ31316

13、あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人は誰でしょうか。

その人は、その知恵にふさわし柔和な行いを、良い生き方によって

示しなさい。

14、しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、

誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。

15、そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉の属し

悪霊に属するものです。

16、ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪

な行いがあるからです。

 

沢山あります。

 

誰でも、完璧な人はいません。

 

ただ一人完璧なお方は、イエス・キリストだけです。

あと2か月で、クリスマスです。

イエスさまがどのようにお生まれになったかを

改めて知りたいと思います。

 

ひとりの女性、マリヤに天の御使いが現れました。

マリヤはその時代では現代のように結婚年齢と大幅に違いますが、

だいたい、13歳から15歳くらいだったと言われています。

 

おめでとうマリヤ、あなたは聖霊があなたの胎にイエス・キリストを宿すことを

告げました。

マリヤはすでにヨセフと結婚の約束をしていましたが、

1年間、一緒暮らすことは出来ませんでした。

 

それが、聖霊が胎に宿す。

マリヤは驚きました。

そんなことがあるわけがない。そう思ったのです。

その思うのが当然ですが。マリヤは信仰を持って、この御使いの言葉を聞きました。

 

マリヤは御使いに言いました。

私はまだ、男の人を知りません。

御使いは、聖霊があなたの上に臨みます。宣言しました。

 

マリヤの胎のなかに、聖霊が宿りました。

マリヤのお腹が大きくなるにつれて、周りの人々も気にかけるようになりました。

 

最も驚いたのは、ヨセフでした。

驚くのは当然です。

誰と姦淫をしたのか。あのマリヤはそんなことをするはずがない。

しかし、確かに、妊娠している!

 

イスラエルの人々は、そういう者は「石打ちの刑」に伏せられることになります。

ヨセフは、マリヤを愛していましたので、見えないところで暮らすように

させて上げようと思いました。

ヨセフの愛です。

しかし、ヨセフは深く悩みました。

 

その時、ヨセフに御使いが夢で現れました。

マリヤの胎に宿っているのは、聖霊によるのです。

ヨセフは分かりました。

 

神さまの計画はすごいですね。

その時に、イスラエルの地の人々は住民登録をするように、ローマの王

の命令でした。ナザレを離れることが出来たのです。

 

ここに神さまの愛があることに気が付きます。

 

ヨセフはダビデの系図、それはイエスさまの系図の血筋でした。

ヨセフは身重のマリヤをロバに乗せて、エルサレムに行きます。

エルサレムに着いた時、マリヤに陣痛が始まりました。

 

ヨセフは宿を探しますが、どこもお客さんでいっぱいになっていました。

ヨセフはふっと思ったのです。

そうだ、今日は暖かい日だから、羊飼いたちは、羊を外においているはずだ。

 

まさにそうでした。

 

マリヤは「羊の洞窟」でマリヤは生まれます。

 

そこに布はおいてありました。
その時代、一人の人が死ぬと、布に包むのです。
その布がおいてあります。いつでも、布を使うようになっていました。
そこでイエスさまはお生まれになりました。
生まれた赤ちゃんは布で包まれました。
何と意味深い神さまの配慮です。イエスさまが生まれた時、
すでに、死人を覆う布に包まれたのです。
イエスさまの十字架がすでに、ここに見ることが出来ます。

 

聖霊さまによって、イエスさまに生まれましたから。

罪は一切ありません。

人間の形をとってお生まれになりましたが、DNAは神さまです。

 

イエスさまは、神の子としてお生まれました。

神が人となった。

 

イエスさまはこうして、お生まれになりました。

 

ヨセフは大工でした。

イエスさまもお父さんの大工の仕事を手伝っていました。

 

30歳になった時に、イエスさまは公生涯を初めました。

そして、最後に、イエスさまは、十字架の刑に処せられたのです。

その死は、人類全ての人々の罪をイエスさまが負い、呪いとなられたのです。

 

このために生まれました。
死ぬために生まれた。

 

私たちは、生きるために生まれました。

 

何と云うことでしょう。

 

イザヤ5310

10、しかし、彼を砕いて、痛めることは、

主の御心であった。

もし彼が、自分のいのちを

罪過のためのいけにえとするなら、

彼は末長く、子孫を見ることができ、

主の言葉は彼によって成し遂げられる。

 

イエスさまの十字架の意味は、600年前に語られていました。

 

 

ですから、私たちは、イエスさまを主と信じるならば誰でも、罪は赦されます。

 

私たちは、死ぬということに対して、恐れのような思いはありませんでしょうか。

自分が死ぬのは、まだ先だと思っていますでしょうか。

 

イエスさまは死にました。十字架刑処せられて、殺されたのです。

.十字架刑、最も残忍な処刑方法の一つです。

イエスさまは、ムチで打たれました。

その時代の鞭は、沢山の金属や動物の骨の重りがつき、何重にも束ねられたものでした。、

その皮の鞭で40に1足りない数で打たれました。

それは、40回すると死んでしまうからです。

最初の鞭がイエスさまに打たれた時、肉体は皮膚も血管も、

あらゆる部分が裂けたのです。

 

それで終わりではありません。

 

そして、約180センチの十字架を、ムチで打たれ、それだけで死にそうな体で、十字架を担いで、

処刑されるゴルゴダの丘に向かって山を登らされ、肉体の限界をはるかに超えていました。、

イエスさまが、ゴルゴダの丘に向かう途中で、倒れてしまいました。

そこで、ローマ兵は、そこに立って見ていた男を指指して担がされました。

その人物はクレネ人でありました。

そして、15センチの釘を両手に打ちこまれ、両足も同じようにされて、ただ、苦痛としか

表現出来ない状態のなかに置かれたのです。

 

私のあなたの罪の赦しのために、父なる神は容赦せずに打ったのです。

 

苦しみの極地で息が途絶える直前にイエスさまは体中の力を振り絞って

「主よ、彼らはいまなにをしているのかわからないのです。

彼らを赦してくださいと語りました。

 

そして、完了したと言って息が無くなりました。

 

ここに愛があります。

 

壮絶な戦いをしました。

それは、想像を絶する姿でした。

 

そして、3日目によみがえりました。

そして天へお帰りになりました。

 

現在は、助け主なる聖霊さまがおられ、私たちを守って下さっているのです。

 

世界の歴史の判断は、起源前を、ビホー・クライスト、イエス以前です。

後半、イエス以後を、アンノドミネ、(ラテン語)イエス以降です。

イエスさまを中心として、人類を分けました。

 

 

ニッキー・ガンベルは語ります。

『私たちは、神から永遠を思う心を与えられていると。』

 

イエス・キリストにあってのみ、永遠の命を与えられます。
死を超えて永遠へと私たちの将来を語り見ることができます。
この十字架のゆえに、イエスさまを信ずる者は、永遠のいのちが与えられ。
 
この地上のいのちを終えた時、次は、永遠の天国へ行きます。
そこでは、苦しみもない天国人です。
神さまは愛なるお方です。
この愛なるお方の愛が必要です。
ここをはっきりしておきましょう。

 

地獄へ行くか、天国へ行くか。どちらを選びますか。
 

 

私たちが最も必要としていることは、「赦し」です。

癌を病んだ方は医者に行きます。

さまざまな病いにかかったならば病院へ行きます。

 

マタイ912後半

12、イエスはこれを聞いて、言われた。

『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

私は、あわれみは好むがいけにえは好まない」

とはどういう意味か、行って学んで来なさい。

「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
 

みなさん、良く知ってください。

 

イエス・キリストは、私の罪を赦すために生まれ、死んでいきました。

しかし、そこで終わるのではなく、よみがえりました。

そして、40日間、この地上で働きをされて、天にお帰りになりました。

 

イエスさまのあとに、2000年の間、また将来においても、聖霊さまが

支配されています。その支配とは、苦しむ人々の心に平安を、心砕かれて

いる全ての人々に、霊的解放を与えています。

 

私はまもなく、アルゼンチンへ行きますが、この霊的、肉的解放をもっと知る

ために行きます。

この解放とは、霊的奥義です。

 

私たちの教会が力強く歩んで行きたいと思うからです。

 

祈ります。

父なる神さま、あなたの御名を讃えます。1週間の歩みを終えて、再び、あなたを礼拝するために教会に来れたことを感謝します。

イエスさまの歩みが、死ぬために生まれたことを新しい思いで聞くことが出来ました。私の罪を赦し、壮絶な戦いをされたことを、

ただ、あなたの前にひれ伏します。神さまのご愛の中に置かれていることを、感謝いたします。私たちは、永遠を思うように創造されたことを知りました。

あなたは、病人を招くために来たとおっしゃりました。私は、あなたの愛のゆえに、沢山の病からいやしの恵みを頂きました。信じられなようにいやされました。

どうぞ、このイエスさまのいのちの中に多くの人々が集められますように、心から祈り、願います。これからの1週間の歩みをあなたを思い、感謝を数える日々を過ごすことが出来ますように、心から願います。

この祈りを主イエスキリストの御名によって祝福し祈ります。

アーメン